ken's銅像探索日誌
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大友 宗麟 1
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『ウィキペディア』から

大友 宗麟 像 1
(大分県 大分市 大分駅前)

大友 宗麟(おおとも そうりん)
義鎮(よししげ)
(1530年−1587年)
戦国大名、キリシタン大名。

撮影日:2008年2月3日
分 類:キリシタン大名
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆

父は大友家第20代当主・大友義鑑。
当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。
キリシタン大名としても有名だが、一時は九州6ヶ国を平定し、九州最強の大名であった。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉の傘下の一大名に甘んじて豊後1国を維持するのがやっとというほどまでに衰退した。

[エピソード]
○キリシタン大名としても知られる義鎮だが、若き日の天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであった。
27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。
領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。
また、博多商人の島井宗室と交友し、日明貿易や日朝貿易も行う。
その他、文化的活動も幅広く行う。
当初は貿易目的のためにキリシタンを保護していたが次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、遂には入信し、ムシカ(理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近)の建国を夢見て、耳川の合戦を引き起こすことになる。
○他人の気持ちを考えない横暴な性格と伝えられており、家臣の妻(一萬田親実の妻)を略奪したり、キリスト教をめぐり妻と離婚したり、酒色に耽るなど横暴な君主としての記録も残っており、それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。政務を拒否し遊び惚けた宗麟を立花道雪が戒めたという逸話も残っている。しかし大友氏は結果として、立花道雪ら優秀な家臣団を持った事と、大内氏滅亡により北九州の大内領を継承するという幸運によって大成したのである。
○天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。
○かなりの好色家であったようで、わざわざ京都に赴いて美女を探し、目星をつけると見境無く略奪婚のようなことを繰り返したとされる。
最初の正室・一色夫人とは家督相続時に離婚しているが、その理由は不明。継室の大友イザベルとはキリスト教の信仰対立で離婚している。
○日本で初めて大砲(当時は国崩し)を使ったのは、宗麟であったとされる。

[感  想]
大分駅前にどんと立っておられます。
刀を杖にした立ち姿は、堂々しており立派です。
写真は、早朝撮ったので、暗くて良くないので、『ウィキペディア』の写真も掲載しています。


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