ken's銅像探索日誌
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大友 宗麟 1
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大友 宗麟 像 1
(大分県 大分市 大分城址公園)

撮影日:2008年3月22日
建設年:昭和44年
分 類:キリシタン大名
作 者:長谷 秀雄
評 価:☆☆☆

大友 宗麟
大友宗麟画像(瑞峯院所蔵)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大友 宗麟(おおとも そうりん)
(1530年-1587年)
戦国-織豊時代の武将

享禄3年生まれ。
大友義鑑の長男。
豊後,肥後など九州6ヵ国の守護と九州探題をかねる。
キリスト教を保護し,南蛮貿易をおこなう。
天正6年受洗,10年少年使節をローマにおくる。
薩摩(鹿児島県)の島津氏の圧迫をうけ,豊臣秀吉の救援をもとめた。
天正15年5月23日死去。58歳。
名は義鎮。別号に宗滴,三非斎など。洗礼名はフランシスコ。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎キリシタン大名としても知られる義鎮だが、若き日の天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであった。
27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。
領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。
また、博多商人の島井宗室と交友し、日明貿易や日朝貿易も行う。
その他、文化的活動も幅広く行う。
当初は貿易目的のためにキリシタンを保護していたが次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、遂には入信し、ムシカ(理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近)の建国を夢見て、耳川の合戦を引き起こすことになる。

◎他人の気持ちを考えない横暴な性格と伝えられており、家臣の妻(一萬田親実の妻)を略奪したり、キリスト教をめぐり妻と離婚したり、酒色に耽るなど横暴な君主としての記録も残っており、それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。
政務を拒否し遊び惚けた宗麟を立花道雪が戒めたという逸話も残っている。
しかし大友氏は結果として、立花道雪ら優秀な家臣団を持った事と、大内氏滅亡により北九州の大内領を継承するという幸運によって大成したのである。

◎天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。

◎かなりの好色家であったようで、わざわざ京都に赴いて美女を探し、目星をつけると見境無く略奪婚のようなことを繰り返したとされる。
最初の正室・一色夫人とは家督相続時に離婚しているが、その理由は不明。
継室の大友イザベルとはキリスト教の信仰対立で離婚している。

◎日本で初めて大砲(当時は国崩し)を使ったのは、宗麟であったとされる。

◎文化人としてもその活動は活発で書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。例を挙げると、永禄12年(1569年)狩野松栄を、元亀2年(1571年)には狩野永徳を豊後に呼び寄せ、障壁画を制作させている。
また、このような多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を大量に購入、収集している。
さらに楢柴肩衝、初花肩衝と共に天下三肩衝といわれる新田肩衝も所有していた。この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの義統の書状も残る程であった。


[感  想]
大分城址公園におられます。
髭と胸の十字架が特徴的な上半身の像です。
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