ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

池田 勇人
2008.7.1広島城 004

2008.7.1広島城 005
池田 勇人 像
(広島県 広島市 広島城前)

池田 勇人(いけだ はやと)
(1899年- 1965年)
昭和時代の官僚,政治家
内閣総理大臣(第58代~第60代)

撮影日:2008年7月1日
建設年:昭和45年
分 類:政治家
作 者:森野 圓象
評 価:☆☆☆

1池田 勇人
池田勇人
1962年11月22日、ユトレヒト州スーストダイクにて
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明治32年12月3日生まれ。
大正14年大蔵省にはいり、昭和22年事務次官。
24年衆議院議員(当選7回、自民党)、第3次吉田内閣の蔵相となり、ドッジ-ラインによる財政の均衡につとめた。
27年通産相となるが失言問題で辞任。
35‐39年首相をつとめ、高度経済成長政策や所得倍増計画を推進した。
昭和40年8月13日死去。65歳。
広島県出身。京都帝大卒。
【格言など】神仏と名医にすべてをまかせる。日本の国のために務めを果たす(がんで手術室にはいる直前のメモ)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎旧制五高在学当時、池田は趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台を開業することを発案。「池田屋」と称した。友人達にツケで飲ませ本人も飲むといった調子のため3ヶ月でつぶれた。
◎池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の亥年生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、小林中、水野成夫、小池厚之助、堀田庄三、東畑精一で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという。
◎首相になるにあたって、放言癖や前岸内閣で傷ついた政府のイメージを払拭し、親しみやすさをアピールすることに努めた。
例えば、スーツはダブルからシングルに、メガネは黒縁から銀縁に替えたりしたことなどが挙げられる。
◎池田は各界の著名人を私邸に招いて交遊を図っていた。
特に俳優の石原裕次郎を気に入り、石原裕次郎と私邸の風呂に一緒に入浴したこともあったという。
◎1960年代にインドネシアのスカルノ大統領と池田をつなぐ仲介役を務めたのはデヴィ夫人という。
デヴィ夫人は池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している。
◎戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである。
◎苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。
池田を「ディスインテリ」という造語で評した宮沢によれば、池田は「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」。
そのことが、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった。
◎郷土広島愛が強く、広島カープ後援会の名誉会長を務め、南海入りが決定的だった山本一義を呼びだし熱心に説得してカープ入りさせたりカープが負けると国鉄時代の豊田泰光の自宅に電話をかけ、「ワシは池田勇人じゃ。今日はよくもカープを負かしてくれたなあ」と脅したという。
豊田は一国の総理が野球の試合結果について電話をかけてきたことにびっくり仰天したが、同時に自身が影響力のある仕事に携わっている喜びがこみあげたと話している。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
広島城の近くにおられます。
結構大きな像で、手と足のポーズが特徴的です。
スポンサーサイト


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
→http://kendouzou.blog115.fc2.com/tb.php/128-f4763fd9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。