ken's銅像探索日誌
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坂本 龍馬 1
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坂本 龍馬 像 1
(京都府 京都市 東山区 円山公園)

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和37年
分 類:幕末志士
評 価:☆☆☆

坂本竜馬
「近代日本人の肖像ホームページ」から

坂本 龍馬(さかもと りょうま)
(1835年‐1867年)
幕末の武士

天保6年11月15日生まれ。
家は土佐高知城下の郷士。
文久元年土佐勤王党にくわわり、翌年脱藩して勝海舟の門にはいって航海術などをまなび、開国論にめざめる。
神戸海軍操練所の塾頭をつとめる。
慶応元年長崎で亀山社中(のちの海援隊)をつくり海運・貿易に従事。
2年西郷隆盛と木戸孝允の間をとりもち薩長同盟を成立させる。
「船中八策」の構想のもとに幕府の大政奉還を実現させ、新統一国家の建設を目ざしたが、慶応3年11月15日京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。33歳。
変名は才谷梅太郎。
【格言など】左様さ、世界の海援隊でもやらんかな
(竜馬がまとめた「新政府綱領」に、本人の役職がないのを西郷に問われて)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[年譜]
1835年 11月15日 龍馬出生
1853年 剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門
1858年 千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授。剣術修行を終えて帰国
1862年 沢村惣之丞とともに脱藩。勝海舟に面会して弟子となる
1863年 勝の尽力により脱藩を赦免される。神戸海軍塾 塾頭をつとめる。
1865年 薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成。
中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
1866年 龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。
伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難)
負傷治療のために妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。
第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。
1867年 亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
後藤象二郎とともに船中八策を策定。
京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。(近江屋事件)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他から抜粋

◎身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。
なお、他の研究では174cmや169cm・62kgという説もある。

◎当時、土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。
あるとき龍馬の旧友の檜垣清治が龍馬と再会した時、龍馬は短めの刀を差していた。
そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。
次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。
納得した檜垣はさっそく拳銃を買い求めた。
三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。
もはや檜垣はついていけなかったという。
龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年)に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはなく、大正3年(1914年)に著された千頭清臣『坂本龍馬』における創作である。

◎龍馬最期の刀は二尺二寸の刀、銘「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」である。龍馬の手紙には、随所に刀の話が出てくる。彼が兄権平に求めた先祖伝来の一品で、慶応3年(1867年)2月、山内容堂に会見するため土佐を訪れた西郷隆盛に「吉行」の刀をことづけ、3月中旬頃長崎の龍馬のもとに届いた。京都に行く時は、いつもこれを差して、兄の贈り物だと自慢していた。
銘「陸奥守吉行
銘「陸奥守吉行」

◎龍馬が愛用した拳銃は2丁あると言われている。
ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径6連発で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であると言われている。
後日、兄坂本権平宛ての手紙の中で「右銃ハ元より六丸込ミな礼(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば」と6連発銃であることを示唆している。
しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1/2 32口径5連発で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、姉乙女宛てに「長サ六寸計(ばかり)五発込懐剣より八ちいさけれども、人おうつに五十間位へだたりて八打殺すことでき申候」と書き送っている。
薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。
当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
1SW モデル
「S&W モデル1」


「評価」
◎板垣退助-「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」とその早死を惜しんだ。
桂浜には、板垣・土方久元らによる「坂本龍馬先生彰勲碑」があり撰文は板垣が揮毫している。
また高知の維新の代表である龍馬の銅像が無いのを惜しみ、親戚の彫刻家・本山白雲に依頼して桂浜に龍馬の銅像を建立した。

◎武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)

◎勝海舟
・「聞く薩、長と結びたりと云。又聞く坂本龍馬、長に行きて是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる」(薩長同盟後、海舟の日記)
・「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
・(土佐が大政奉還を建白したのは大勢を洞察した卓見か、ただその場の小策に出たためかと問われ)
「あれは坂本がいたからのこと、土佐はいつも筒井順慶で伏見の時も、全くの日和見をしていた」
・(龍馬が西郷を大きな釣鐘に例え評したことについて)
「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」
・(同じく龍馬の西郷評について)
「余、深く此言に感じ実に知言となせり。およそ人を見るの標準は自家の識慮に在り。氏が西郷を評するの語をもって氏が人物を知るに足らむ。龍馬氏が一世の事業の如きは既に世の伝承する所、今敢えて賞せず。」

◎西郷隆盛-「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

◎三吉慎蔵-「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」

◎関義臣-「相手の話を黙って聴き、否とも応とも言わず、さんざん人にしゃべらせておいた後で、「私の説は」とユーモアを交えて話し、自分が大笑いするという愛嬌家だった」

◎陸奥宗光-「その見識、議論の高さ、他人を説得する能力に関して彼の右に出る者はいない」

[銅 像]
初代の銅像は昭和9年に建立されたが、戦時中に供出され、昭和37年5月3日に再建された。
立ち姿が坂本龍馬で、片膝を立てているのが中岡慎太郎。
揮毫は吉田茂

[感 想]
有名な坂本竜馬の銅像初登場です!
円山公園に堂々と立っています。
近づくと目がちょっと怖い感じです。
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