ken's銅像探索日誌
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結城 秀康
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結城 秀康 像
(福井県 福井市 福井県庁(福井城址))

結城 秀康(ゆうき ひでやす)
(1574年‐1605年)
武将、大名
越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主
越前松平家宗家初代

撮影日:2008年9月1日
建設年:平成14年
分 類:大名
作者 :林 耀光
評 価:☆☆☆

結城 秀康
結城秀康像
福井市 運正寺蔵

天正2年2月8日生まれ。
徳川家康の次男。母はお万の方(小督局)。
天正12年豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康を名のる。
のち下総の結城晴朝の娘婿となり10万1000石を相続。
慶長5年越前北庄藩(のちの福井藩)68万石に封じられ、翌年封地にはいる。
権中納言。
慶長12年閏4月8日死去。34歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[逸話]
・秀康の武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。一方で、伏見城において行われた秀忠将軍就任祝いの席には、上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、秀康と景勝は同じ権中納言といえども、景勝の方がより早くその官位を受けているとして、先官の礼をもって景勝に上座を譲ろうとして譲り合いになってしまったという。
結局秀忠の裁定で秀康が上座になったが、これを見た人々は秀康の礼節や謙譲の心の大きさに感心したという。
・鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして、碓氷峠の関所で止められたが、秀康は自家が徳川家中で別格扱いであるのにそれを知らずにいた不届きな関守を成敗するとした。
このため関守は懼れて江戸に伺いを立てたが、江戸の秀忠は、秀康に殺されなかっただけ幸いであったと言って事態は収まったという。
・慶長5年、家康が重臣たちに後継者を誰にすべきか質問したとき、本多忠勝と本多正信の両名は秀康の後継を支持した。秀忠には大久保忠隣しか支持が無かったという(「大久保家留書」)。
・秀吉の人質時代、伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。
秀康は「自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万である」として無礼討ちした。
しかし秀吉は秀康のこの行為を、「自分の養子をないがしろにするのは、自分に無礼を働いたことと同じ。
秀康の処置は天晴れである」と褒め称えたという。
・秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。
すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。
その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。
この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。
・秀康は弟の秀忠が徳川氏の家督を継いだとき、伏見城代を務めていた。
出雲の阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、こう漏らしたと言う。
「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。
我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり。
・秀康の専用武器として知られているのは天下三名槍の一つで駿河嶋田の鍛冶師義助の傑作御手杵である。
養父結城晴朝から譲られたこの槍は、槍身だけで全長210cm、穂先が138cmもあり、常人には振り回せないほど重く大きい。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
福井県庁の敷地内におられます。
石で出来た像で、中国で制作されたようです。
顔がなんとなく日本人離れしているのはそのためでしょうか?
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