ken's銅像探索日誌
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お市の方
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お市の方 像
(福井県 福井市 柴田神社境内(北の庄城跡))

お市の方(おいちのかた)
(1547年‐1583年)
戦国時代の女性。

撮影日:2008年9月1日
分 類:戦国時代の女性
評 価:☆☆☆☆

お市の方
お市の方
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天文16年生まれ。織田信長の妹。
信長の命で、永禄10年近江(滋賀県)小谷城主浅井長政にとつぐ。
3女(淀殿、京極高次の妻常高院、徳川秀忠の妻崇源院)と2男を生む。
浅井氏がほろんだのち再婚した柴田勝家とともに、羽柴(豊臣)秀吉に攻められ天正11年4月24日越前(福井県)北庄城で自害。37歳。
尾張(愛知県)出身。
【格言など】さらぬだにうち寝(ぬ)る程も夏の夜の夢路をさそふ郭公(ほととぎす)哉(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[逸 話]
・戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられる。
・非常に背が高かったともいわれており、そのためか、着物の「おはしょり」を作らない独特の着付け方をした肖像画(高野山 持明院蔵)が伝えられている
・信長は「市が男だったなら、良き武将となったであろう」とまで述べたと言われている。
・市は秀吉を毛嫌いしており、勝家が自害するときに城から脱出するように勧めたが、市は受け入れずに勝家と運命を共にしたと言われている。
死を賭してまで秀吉を避けた理由としては、秀吉が猿顔で長政に比べるべくもない醜男であったこと、または秀吉が信長、長政や勝家と異なり成り上がり者であったこと、さらに、夫長政の死後、戦国の習いとはいえ、市の生んだ長男とされる万福丸が秀吉の手によって磔にされた事項などが考えられている。
ただし、秀吉は彼女に熱烈な好意を抱いていたとされ、小谷落城の際も賤ヶ岳落城の際にも母子の生命を何とか救おうとしていた。
また後年茶々(淀殿)を側室に迎えたのも、三姉妹の中で彼女が一番市に似ていたから、と言われている。
・袋の両端を縛った「小豆袋」で信長に危機(挟み撃ち)を伝えた逸話などが知られるが、俗説である疑いが強い(彼女が夫と仲睦まじかったのは有名であり、当時の通例を考えても、完全に浅井側の人間であったとされる)。
・織田家は美男美女の家系で知られるが中でも市やその姉(または妹)、犬の美しさは有名である。兄弟では兄である信長も美形であったと伝わるが、信長や市の同腹の兄妹であるとされる織田秀孝は 、とりわけ、たいへんな美男子であったことが伝わっている。(信長公記の著者、太田牛一は「歳の齢十五六にして、御膚は白粉のごとく、たんくわのくちびる(丹花の唇)柔和のすがた、容顔美麗人にすぐれて、いつくしき共中々たとへにも及び難き御方様なり。」と秀孝の美貌ぶりを記している。)
・三人の娘たちの行く末を心配していた市は、庇護を受ける羽柴秀吉に書状を送るなど母としての娘たちに対する深い愛情が伺える。兄信長や信包の市に対する待遇が姉妹の中ではたいへん厚かったことから、最近では信長、信包の同腹の妹であるとされ母は土田御前であるという見方もある。このため市の同腹の兄弟とされるのは信長、信行、信包、秀孝であるとされる。また、信長が最も可愛がった妹であったと伝わる。
・長女の淀殿は父の長政の十七回忌、母の市の七回忌に菩提を弔うために、肖像画を描かせた。市の肖像画は「戦国一の美人画」として名高い。
・市は落城の際、三姉妹に「浅井の血を絶やしてはならない」と、言い聞かせたという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
夫の柴田勝家の銅像と同じ柴田神社境内におられます。
戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられるだけあり、像も上品な感じがします。
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