ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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吉田 茂
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吉田 茂 像  
(東京都 千代田区 北の丸公園)

吉田 茂(よしだ しげる)
(1878年-1967年)
明治-昭和時代の外交官,政治家
内閣総理大臣(45・48~51代)

撮影日:2007年6月4日
制作年:昭和56年
分 類:政治家
作 者:舟越保武
評 価:☆☆☆

吉田茂
吉田茂の肖像写真
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明治11年9月22日生まれ。
竹内綱の5男。吉田健三の養子。岳父は牧野伸顕。
駐英大使などをへて,戦後東久邇・幣原両内閣の外相。
昭和21年日本自由党総裁となり第1次吉田内閣を組織,以後第5次まで組閣。
22年衆議院議員(当選7回,自民党)。
憲法制定,農地改革などにあたり,26年サンフランシスコ講和条約に調印。
荒廃した日本の復興につくし,38年引退後も元老として影響力をもちつづけた。
昭和42年10月20日死去。89歳。
東京出身。東京帝大卒。
【格言など】かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない(昭和22年元旦のラジオ放送)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆吉田茂は大正末から昭和にかけて活躍した官僚・政治家です。
戦前は外務次官や駐英大使などの要職を歴任し、その間、欧米各国に多くの知己を得て特に米英通として知られましたが、軍部からは「親米英派」としてマークされました。
戦後は一貫して日本の復興と世界外交復帰に尽力し、サンフランシスコ講和条約の締結など、持ち前の行動力で日本の政治・外交を牽引しました。
しかし、ワンマンな性格と歯に衣着せぬ言動から度々トラブルを引き起こし、中でも予算審議中に野党議員の質疑に対しつぶやいた一言から衆議院解散に至った「バカヤロー解散」は有名です。
縁戚には多くの政財界人が名を連ねていますが、現職(2008年12月時点)の第92代内閣総理大臣・麻生太郎は孫(三女の子)にあたります。
銅像は北の丸公園内にあり、芝生の中にまるで本人がたたずんでいるような雰囲気で建っています。
その風貌とコート姿、葉巻好きであったことから「和製チャーチル」とも呼ばれたというエピソードも「なるほど」と思わせる立像です。
東京以外にも多数の銅像がありますが、父親の出身地に近い高知県(吉田茂自身は東京生まれ)の高知龍馬空港の敷地内と、神奈川県大磯にある旧吉田邸には袴姿の立像があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。
これに次ぐのが伊藤博文で4回組閣の大命を受けている。
また日本国憲法下において、下野した総理大臣が再任したのも吉田ただ1人である。
内閣総理大臣在任期間は2616日
戦後最も長い政権は、佐藤栄作内閣の2798日
吉田内閣がこれに続く。
以下、小泉純一郎内閣1980日
中曽根康弘内閣1806日
池田勇人内閣1575日

◎バカヤロー解散
1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散されたため、こう呼ばれる。
「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、映像資料で見れば分かるように、吉田は席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」とつぶやいたのみで、それを偶然マイクが拾い、気づいた西村が聞き咎めた為に騒ぎが大きくなったというのが実態である。

◎癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。
公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。

◎田中義一が首相になった時、就任挨拶に行った吉田は田中から総理秘書官就任を要請された。しかし吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。

◎ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。
抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人が『居ない』と言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。

◎名ヴァイオリニストのユーディ・メニューインが来日公演を行った際、日比谷公会堂で演奏を聴き終えた吉田は感想を聞かれ、「大変立派なピアノ演奏でした」と答えたために、周囲からは「吉田は音楽がわからない」等と批判されたが、その日の演奏会は主役のメニューインの演奏の出来が実際に良いとは言えなかったようである。

◎1952年に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたことがある。

◎皇太子明仁親王から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際に、そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい(吉田は気に入らない質問をした記者に水をぶっ掛けたことがあった)と返答した(それに対して皇太子からは吉田さんのようにはいかないと応じ苦笑したとされる)。

◎憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ(General Head Quarters)というが、実は、『Go Home Quickly』の略語だというものもあるくらいだ。」と、吉田らしい辛辣な皮肉をこめた答えを返した。

◎GHQに提出した統計資料の数値が根拠に乏しくマッカーサーの怒りをかった事があった。それに対して、「統計がまともに取れるくらいなら、あなたの国とあんな無謀な戦争はやらなかったでしょう。もし統計が完備していたならば、私たちが戦争に勝っていたかも知れない」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという。

◎晩年に大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり(天皇)陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたと言うエピソードも残している。

◎吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。このジョークは色々な場所で使っていたようである。

◎昭和39年11月の宮中園遊会において、昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい。大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答え、その場を笑わせたという。

◎駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省から吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりにムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。

◎首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。

◎佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤
君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。
※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
銅像は、黒光りしていて、堂々とした表情がいいですね。
人となりを調べると、いろいろとユーモアあるエピソードが多く、おもしろく信念を持った人物だと思いました。

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