ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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楠木 正成
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楠木 正成 像  
(東京都 千代田区 皇居前広場)

楠木正成(くすのき まさしげ)
(不詳-1336年)
鎌倉-南北朝時代の武将

撮影日:2007年6月4日
建設年:明治33年
分 類:武将
作 者:高村 光雲 他
評 価:☆☆☆☆☆
(満点です!)

河内(大阪府)赤坂の土豪。
元弘元年(1331)後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵。
配下の武士団をうごかして奇策を駆使,赤坂城・千早城の戦いなどで幕府軍をくるしめる。
建武政権下で摂津守,河内守。
建武3=延元元年足利尊氏と摂津湊川(兵庫県)でたたかい,5月25日敗れて自刃した。
【格言など】誉れを求めんより恥をいとえ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆楠木正成(銘板は楠 正成)は、鎌倉幕府時代末から南北朝時代初期にかけて活躍した武将です。
河内周辺を根拠地とした独立性の強い豪族・武士集団、いわゆる「悪党」の出身ともいわれますが、出自には謎が多い武将です。
後醍醐天皇が企図した反北条・反鎌倉幕府の運動に荷担。
鎌倉幕府滅亡の端緒となった千早城籠城戦で名を上げ、足利尊氏と後醍醐天皇の対立が激化した後も官軍の中心人物として戦いましたが、湊川の合戦で寡兵をもって善戦するも討ち死にしました。
『太平記』では尊王の志厚い忠義の武将として描かれていますが、「政権の安定を考えるなら新田義貞を排除して足利尊氏と結んだほうがよい」という現実的な考えをもっていたという説もあります。
銅像は、明治23年(1890)に住友財閥の第14代住友吉左衛門(住友友親)の発案により、当時岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に製作を依頼。
同校の彫刻科教授であった高村光雲らが中心となって製作にあたりました。
完成は明治30年(1897)、明治33年に現在の皇居前広場に建立されました。
像の姿は、六波羅探題滅亡後、新政権樹立のために京都に向かう後醍醐天皇を出迎えた時を描いたもので、高さ3.96メートルの堂々たる騎馬武者姿です。
武者銅像の極致とも言えるダイナミックかつ精緻な銅像で、馬具や甲冑の造形はもちろん、口を結んだ大楠公(楠木正成)の緊張感あふれる表情や馬体の隅々に至るまで、まったく隙のない描写は見ていてため息が出るほどです。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

楠公銅像
「楠公銅像」
最新東京名所写真帖(明治42.3刊行)
宮城前楠木正成公銅像
「宮城前楠木正成公銅像」
最新東京名所写真帖(明治43.7刊行)
楠公銅像2
「楠公銅像」
最新東京名所写真帖(明治44.4刊行)
「写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳ホームページ-」から
明治時代の東京名所写真帳の掲載写真です。

[紙  幣]
nm070.jpg
小額日本銀行券(い五銭券)
(1944年)
戦局の悪化により、補助貨幣の素材金属が極度に不足したための緊急措置として初めて「円」未満の10銭、5銭の小型紙幣として日本銀行券が発行された。
楠木正成の銅像が紙幣(い五銭券)の図柄となっています。
ホームページ「日本銀行金融研究所 貨幣博物館」から

[感  想]
これは、すごい迫力!
躍動感溢れる像です。
感動しました!
銅像の作者を調べると、
有名な彫刻家、高村光雲作です。
肖像では無く、銅像自体が紙幣の図柄にもなっていますし、
やはりこの銅像は、ちょっと別格です。
明治時代から現在まで東京の名所です。
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