ken's銅像探索日誌
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若槻 礼次郎
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若槻 礼次郎 像
(島根県 松江市 殿町 島根県庁前)

若槻 礼次郎(わかつき れいじろう)
(1866年-1949年)
政治家
内閣総理大臣(第25・28代)

撮影日:2010年8月10日
建設年:昭和36年  
分 類:政治家
作 者:藤川 勇造
評 価:☆☆☆

若槻礼次郎1

若槻礼次郎2
「近代日本人の肖像ホームページ」から

慶応2年2月5日生まれ。
出雲松江藩士奥村仙三郎の次男。
叔父若槻敬の養子。
大蔵次官をへて,貴族院議員。
第3次桂,第2次大隈内閣の蔵相をつとめ,加藤高明内閣では内相として普通選挙法,治安維持法を成立させた。
大正15年憲政会総裁となり,第1次若槻内閣を組閣。
昭和5年ロンドン海軍軍縮会議首席全権。
6年第2次若槻内閣を組閣したが,満州事変後の閣内不一致のため総辞職。
昭和24年11月20日死去。84歳。帝国大学卒。号は克堂。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎若槻は事務能力に秀でた政治家であった。
矢田挿雲は「私生活の話のうちに、毎晩12時頃帰宅して熱燗を一本傾けながら百本以上の私信を処理し『我が妻よ、御身もし余を愛するならば、余に話しかけて余の仕事を妨ぐる勿れ』と箝口令を発布する由が出て居た。非常に事務的な正覚坊と謂ひ得る」と書いている。
◎ロンドン海軍軍縮会議の首席全権になった際、「骸骨が大砲を引っ張っても仕方がない」と国力と調和した軍備を訴え、右翼から攻撃されている。
◎大正天皇崩御時の首相であるが、若槻の次に島根県から首相になった竹下登は昭和天皇崩御時の首相である。
◎学生時代
・東京では大学予備門に通っていた岸清一(のち法学博士)の下宿へ転がり込んだ。
岸とは血のつながりはないが、近い親類であった。
やがて狭い下宿を見つけて、そこへ移った。
・司法省法学校の入学試験というのは論語、孟子の解釈と、資治通鑑の白文訓点の二課目だった。
・高等学校でも、大学でも、常に首席であった。
荒井賢太郎と安達峰一郎とが、あるときは安達が二番、あるときは荒井が二番というようなことだった。
・明治25年(1892年)7月、帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業した。
同期に、後に司法大臣、鉄道大臣を歴任した政党政治家・小川平吉、数期にわたり内務大臣を務めた官僚政治家・水野錬太郎、常設国際司法裁判所所長・安達峰一郎らがいる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
島根県庁前におられます。
やせた髭の顔が印象的です。
大正、昭和天皇崩御時の首相がどちらも島根県出身という偶然も興味深いです。
近くに建つ銅像の岸清一とも親交があったようです。
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