ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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板垣 退助
IMG_2810.jpg

IMG_2814.jpg
板垣 退助 像
(高知県 高知市 丸ノ内 高知公園)

板垣退助(いたがき たいすけ)
(1837年-1919年)
政治家

撮影日:2010年9月19日
建設年:昭和31年
分 類:政治家
作 者:浜口 青果
評 価:☆☆☆

板垣退助

2板垣退助
「近代日本人の肖像ホームページ」から

天保8年4月17日生まれ。
土佐高知藩士。
戊辰戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。
6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。
翌年民選議院設立建白書を提出。
帰郷して立志社をおこし,自由民権運動を指導した。
14年自由党を結成して総理。
24年再結成された自由党の総理。
29年第2次伊藤内閣の内相。
31年大隈重信と隈板内閣をつくり,内相。伯爵。
33年政界を引退し,社会改良運動につくした。
大正8年7月16日死去。83歳。
【格言など】われ死すとも,自由は死せず(明治15年,刺客に斬りつけられて)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「岐阜事件」
明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した。
その際、板垣が述べたことは、広く人々に、そして後世にまで伝わることになった。
板垣は襲われた後、起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った。
やがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。
つまり、「板垣死すとも、自由は死せず。」という言葉で、板垣本人が言った訳ではない。
なお、このとき板垣を診察した医者は後藤新平であった。
板垣は後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったという。
後藤は後に、板垣の希望通り、政治家となった。

100円札
日本銀行券B100円券

Itagaki50sen.jpg
50銭政府紙幣
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
初代は大正12(1923)年12月5日除幕。
製作は坂本龍馬の銅像も作った高知県宿毛市出身の本山白雲。
本山白雲(高村光雲の弟子)は、退助の親族でもある。
総工費15,646円99銭。銅像の高さは2,46m。
銅像本体は戦時中、金属回収のため供出されることになり、昭和18(1943)年9月2日に壮行式が行われた。
現在の銅像は、昭和31(1956)年5月11日に再建除幕されたもの。
製作は夜須町出身の浜口青果、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。
銅像の高さは2,20m、台座4,205m、全高6,405m。

[感  想]
高知城へと上がる途中におられます。
高知城をバックに右手を掲げる姿が絵になっています。
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