山内 一豊 像 (高知県 高知市 丸ノ内 高知公園)
山内 一豊(やまうち かずとよ) (1545年-1605年) 戦国-江戸時代前期の武将,大名。
撮影日:2010年9月18日 建設年:平成8年 分 類:大名 評 価:☆☆☆☆
天文14年生まれ。 織田信長,豊臣秀吉につかえる。 近江長浜城主などをへて,天正18年遠江掛川城主。 慶長5年関ケ原の戦いの功により,土佐高知藩主山内家初代となる。20万2600石。 高知城をきずき,支配体制をかためた。 慶長10年9月20日死去。60歳。 「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から
「土佐一国の領主として」 慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。 大幅な加増があり余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。 これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要なポストを主に旧臣で固めて長宗我部勢力を排除した。 さらに、長宗我部氏の遺臣らを桂浜の角力大会に招いて捕縛して73名を磔にして殺すなど、あくまで武断措置で対応した。 このために命を狙われる危険性があり、高知城の築城の際などには6人の影武者と共に現地を視察した(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例である)。 各地にくすぶりを残し、この課題(以前からの山内家家臣を上士、旧長宗我部氏の家臣を郷士とした差別的扱い)は次代から幕末になるまで引き継がれ、坂本龍馬などの人物が生まれることになる。 また、高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し(慶長8年(1603年)完成)、城下町の整備を行った。 また、このころに官位が従四位下土佐守に進んでいる。 また、領民に対して食中毒を気にし、鰹を刺身で食べることを禁じた。 それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。 慶長10年(1605年)、高知城にて病死。享年60。 ※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋
[感 想] 槍を持って、馬にまたがった姿は、堂々としています。 にらみが効いたいい像です。
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