ken's銅像探索日誌
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西郷 隆盛 1
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西郷 隆盛 像 1
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

西郷 隆盛(さいごう たかもり)
(1828年-1877年)
江戸後期-明治時代の武士,政治家

撮影日:2007年6月21日
建設年:明治31年
分 類:薩摩藩士
作 者:高村光雲(人物)、後藤貞行(犬)
評 価:☆☆☆☆

西郷隆盛
「近代日本人の肖像ホームページ」から

文政10年12月7日生まれ。
西郷吉兵衛の長男。
薩摩鹿児島藩士。
藩主島津斉彬にみいだされるが,斉彬の没後,尊攘派対策で島津久光の怒りにふれて流罪,のちゆるされて藩政の主導権をにぎり,慶応2年坂本竜馬の仲介で倒幕の薩長同盟をむすぶ。
4年戊辰戦争を指導,江戸城の無血開城を実現。
新政府の陸軍元帥兼参議となるが,征韓論などで大久保利通らと対立し,下野して帰郷。
西南戦争をおこし,敗れて明治10年9月24日城山で自刃した。51歳。
【格言など】天は人もわれも同一に愛す,故に我を愛する心をもって人を愛せよ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

上野のお山の西郷さん、と呼ばれて親しまれている銅像です。
西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の身ながら時の藩主・島津斉彬に見出され、やがて戊辰戦争を主導して倒幕と明治新政府の樹立に大きな役割を果たした人物。
大久保利通、桂小五郎とともに維新三傑の一人に数えられています。
上野の像のモチーフは、犬を連れ、浴衣姿で兎狩りに興じている姿。
この姿を提案したのは従弟の大山巌で、私利私欲のない無垢な人間としての西郷隆盛を表現するという志であったそうです。
また、西郷の愛犬は雌犬の「ツン」でしたが、銅像製作当時はすでに死んでいたため、別の雄犬をモデルに製作されています。
銅像の完成は明治31年で、日本初となる銅像除幕式が行われました。
東京市の名物として市民に愛されただけでなく、地方から訪れる観光客にも人気でしたが、関東大震災に際しては尋ね人の張り紙掲示板の役割も務めました。
現在は周囲に高いビルが建っていますが、明治から昭和初期にかけては遠くからでも目立ったといいます。
余談ですが、西郷隆盛の未亡人は像が兎狩りの姿を模したとは知らず、除幕式の際に「浴衣で散歩することはなかった」と不満をもらして周囲を慌てさせたというエピソードも残っています。
西郷は日本初の陸軍大将となったことでも知られていますが、平服姿で像が作られた背景には、西郷が西南戦争で賊軍になったことが影響していたようです。
なお鹿児島には軍服姿の銅像が作られています。
見所は、浴衣の上からもふくよかな体躯を想像させる肉感表現で、時代の変わり目を激しく生きた人物というよりは、大山巌が意図したように柔和な人物像が随所に感じられます。
像それ自体も大きいですが、人物の大きさ、大らかさを感じさせる銅像です。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[肖 像]
◎大久保ら維新の立役者の絵が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に明言している。事実、西郷の顔写真は一切残っていない。
◎死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった1枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、弟・従道の目元に、がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものであり、キヨッソーネは西郷との面識が一切無かったことから、実際の彼の顔とは異なり細い顔であるという可能性もある。
西郷の顔を記憶している人間が当時は多数生きており、特に似ていないとの異論も出ていないので基本的にはキヨッソーネの肖像画は似ているものと思われる。
ただし、実際の西郷の耳は耳たぶが垂れたいわゆる福耳ではなく、平耳であったことが近年の研究で明らかにされている。
実際の西郷にあって描かれた肖像画のいくつかは、明らかに平耳で描かれている。
saigou.jpg


[銅 像]
◎肖像画を基に東京都台東区上野の上野公園に高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)の銅像が建設された。
銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている(樺山愛輔『父、樺山資紀』、伝記叢書44、大空社、昭和63年)。
公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(鹿児島弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。
この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」と解釈している。
◎上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、兎狩りをしている姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兔狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した(樺山愛輔、上掲書)。
連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。
一方、鹿児島市の城山公園に立つ銅像は軍装(陸軍大将)である。

西郷銅像
「西郷銅像」
最新東京名所写真帖(明治44.4刊行)
西郷銅像2
「西郷銅像」
最新東京名所写真帖(明治42.3刊行)
「写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳ホームページ-」から

[エピソード]
◎幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。
◎身長:182cm、体重:114kg。血液型はB型。喫煙者だった。
◎郷土の名物、黒豚の豚肉が大好物だったが、特に好んでいたのが今風でいう肉入り野菜炒めと豚骨と呼ばれる鹿児島の郷土料理であったことが、愛加那の子孫によって『鹿児島の郷土料理』という書籍に載せられている。
◎愛称
「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。
◎「うーとん」「うどめ」などのあだなの由来
「うどめ」とは「巨目」という意味である。
西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。
その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。
そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。
その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。
◎猟好きと猟犬
西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。
自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。
狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。
西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。
したがって猟犬を非常に大切にした。
東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
「上野の西郷さん」は、「桂浜の坂本龍馬」と並んで、多分日本で一番知られている銅像ですね。
堂々とした姿は、迫力満点です!
さすがは、高村光雲といった感じです。
夫人の「うちの主人はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かしたエピソードは、笑えます。
でも、これだけ銅像のことが、話題となる銅像はなかなか他にありません。やはり西郷の人柄と人気がそうさせるのでしょう。

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