ken's銅像探索日誌
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西郷 隆盛
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西郷 隆盛 像
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

西郷 隆盛(さいごう たかもり)
(1828年−1877年(明治10年))
日本の武士・薩摩藩士、政治家、軍人。

撮影日:2007年6月21日
分 類:武 士
作 者:高村光雲
評 価:☆☆☆☆

同じ薩摩藩の親友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。
斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。
復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。
しかし、家老小松帯刀や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟と交渉して江戸城無血開城を実現している。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。
さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保利通、木戸孝允ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。
征韓論に与し朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを主張し、帰国した大久保らと対立する。
明治6年(1873年)の明治六年政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。
佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

[年 譜]
1827年
下加治屋町山之口馬場で生誕
1844年
藩の郡方書役助となる
1852年
 父死去で跡目相続(この年祖父,母も死去)
1854年
 中小姓となり,藩主斉彬に従って江戸へ
1857年
藩主に従い帰藩後,江戸勤務を命ぜられる
1858年
帰藩後情勢を報告,京都で斉彬の訃報に殉死を考える,帰藩後僧の月照と入水,西郷は蘇生
1859年
潜居のため奄美大島龍郷村へ
1862年
復職したが,無断上京罪で沖良部島へ
1863年
囲いの中で島の子供たちのために塾を開く
1864年
召還され,京都の禁門の変で藩兵を指揮
1866年
坂本龍馬立ち合いのもと薩長提携を密約
1867年
王政復古断行を決める
1868(明治元)
江戸城明け渡し,弟吉次郎は新潟で戦死
1871年
参議の辞令,西郷隆盛の名で正三位に
1873年
朝鮮派遣使節中止で参議を辞職,鹿児島へ
1874年
私学校をつくる
1875年
吉野寺山に吉野開墾社を創立
1877年
政府へ尋問のために東上する(西南戦争),
9月24日別府晋介の介錯により自決

1898年(明治31年)
東京上野の銅像(高村光雲作)除幕
1937年(昭和12年)
鹿児島・城山麓の銅像(安藤照作)除幕

[肖 像]
○大久保ら維新の立役者の絵が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に明言している。事実、西郷の顔写真は一切残っていない。
○死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった1枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、弟・従道の目元に、がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものであり、キヨッソーネは西郷との面識が一切無かったことから、実際の彼の顔とは異なり細い顔であるという可能性もある。西郷の顔を記憶している人間が当時は多数生きており、特に似ていないとの異論も出ていないので基本的にはキヨッソーネの肖像画は似ているものと思われる。ただし、実際の西郷の耳は耳たぶが垂れたいわゆる福耳ではなく、平耳であったことが近年の研究で明らかにされている。実際の西郷にあって描かれた肖像画のいくつかは、明らかに平耳で描かれている。
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[銅 像]
○肖像画を基に東京都台東区上野の上野公園に高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)の銅像が建設された。
銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている(樺山愛輔『父、樺山資紀』、伝記叢書44、大空社、昭和63年)。
公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(鹿児島弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。
この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」と解釈している。
○上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、兎狩りをしている姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兔狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した(樺山愛輔、上掲書)。
連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。
一方、鹿児島市の城山公園に立つ銅像は軍装(陸軍大将)である。

[エピソード]
○幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。
○身長:182cm、体重:114kg。血液型はB型。喫煙者だった。
○郷土の名物、黒豚の豚肉が大好物だったが、特に好んでいたのが今風でいう肉入り野菜炒めと豚骨と呼ばれる鹿児島の郷土料理であったことが、愛加那の子孫によって『鹿児島の郷土料理』という書籍に載せられている。
○愛称
「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。
○「うーとん」「うどめ」などのあだなの由来
「うどめ」とは「巨目」という意味である。
西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。
その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。
そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。
その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。
○猟好きと猟犬
西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。
自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。
狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。
西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。
したがって猟犬を非常に大切にした。
東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。

※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
「上野の西郷さん」は、「桂浜の坂本龍馬」と並んで、多分日本で一番知られている銅像ですね。
堂々とした姿は、迫力満点です!
さすがは、高村光雲といった感じです。
夫人の「うちの主人はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かしたエピソードは、笑えます。
でも、これだけ銅像のことが、話題となる銅像はなかなか他にありません。やはり西郷の人柄と人気がそうさせるのでしょう。


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