ken's銅像探索日誌
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児玉 源太郎 1
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IMG_4284.jpg
児玉 源太郎 像 1
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和13年
分 類:軍人
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

児玉源太郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

児玉 源太郎 (こだま げんたろう)
(1852年-1906年)
明治時代の軍人

嘉永5年閏2月25日生まれ。
明治20年陸軍大学校初代校長となり軍制を整備。
陸軍次官,台湾総督,陸相,内相,文相などを歴任。
日露戦争では満州軍総参謀長をつとめ,大山巌満州軍総司令官を補佐。
39年参謀総長。陸軍大将。
明治39年7月23日死去。55歳。
死後伯爵。周防(山口県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎性格的には情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。
しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。

◎日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。

◎児玉と乃木は旧知の間柄であった。
千葉県佐倉における東京鎮台第二連隊長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。
「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。

◎児玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。
己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。
児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。

◎晩年、浅草の凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオン・ボナパルトに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩き寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。

[感  想]
日露戦争で活躍した山口県徳山出身の軍人です。
像は、北村西望の彫刻園の中に展示されています。
馬に跨り敬礼する姿が印象的です。
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