ken's銅像探索日誌
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野口 英世
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野口 英世 像
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

野口 英世(のぐち ひでよ)
(1876年−1928年)
日本の細菌学者。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)

撮影日:2007年6月21日
分 類:文化人
作 者:吉田 三郎
評 価:☆☆☆

黄熱病や梅毒等の研究で知られる。
また、コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人ともいわれる。
ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去。
2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっている。

趣味は、浪花節、将棋、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、ここで油絵の多くは描かれた。
ロックフェラー大学の図書館入り口の左右には、ロックフェラー1世と、野口英世の胸像が対になって並んでいる。東京の科学博物館前にも銅像がある。


[年 譜]
1876年
福島県耶麻郡翁島村(現・猪苗代町)に野口佐代助、シカの長男として生まれる。
野口家は代々貧農の家系であった。幼名は清作。
2歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷する。
医師にかかることが出来ず癒着。
「手ん棒」というあだ名をつけられ、イジメを受ける。
1891年
同級生の募金により、洋航帰りの医師・渡部鼎の下、左手の大手術を受ける。
1893年
猪苗代高等小学校卒業後、上京。
歯科医であり高山歯科医学院(東京歯科大学)創立者の一人血脇守之助による月額15円の援助を受け、東京の芝伊皿子坂上の同学院で雑用をしながら済生学舎(日本医科大学)で医学を学ぶ。
毎月大金が入金される事からこの頃より遊郭などでの放蕩癖が発露。
1896年
医学前期試験(筆記試験)に19歳で合格。
同年の後期試験(臨床試験)で、大学教授も見つけられなかった病名を言い当て、20歳で医師免許を取得(当時は“前期3年・後期7年”と言われた)。
1897年
順天堂病院助手となるが月給が少なく、高山歯科医学院で講師を務める。
また、友人より度々借金を重ねる。
1898年
北里伝染病研究所に勤め始める。
しかし、周りは東京帝国大学医学部出の集まりで、学歴を理由に冷遇を受ける。
一方で、来日していたサイモン・フレクスナーの案内役を務めていた際、フレクスナーに自分が渡米した際の世話を打診、フレクスナーは半分社交辞令で応じる。
1898年
坪内逍遥の小説「当世書生気質」を読み、自堕落な生活を送る主人公「野々口精作」と自分の名「野口清作」と行動(遊郭等での放蕩癖)が極めて近いため、ショックを受け「英世」と改名。
「当世書生気質」が発刊されたのは1885年。
野口は当時7歳。のちに小林栄が坪内逍遥に質問し、「野口英世をモデルにしたのではない」と返答したと文献に記されている。
坪内逍遥は後に「キング」誌のエッセイに「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったことを光栄」との旨を記した。
1899年
横浜海港検疫所検疫官補となる。
清国でペストが猛威。対策としての国際防疫班に選ばれる。
支度金100円を出発前に使い果たし、血脇守之助に無心し渡航。
清国では海外チームの評価を受け月額約260円〜390円の高給を得るも、毎夜遊興にふけり無一文で帰国する。
1900年
フレクスナーを頼り渡米を決意、小林栄から200円を借り、斎藤家の子女と帰国後の婚約をし結納金として300円を得て旅費を得る。
しかし渡航直前に横浜の遊郭で友人と遊興にふけり更に賭博にて使い果たし、血脇守之助が高利貸しより借りた300円を資金としてアメリカに渡航。
フレクスナーのもとペンシルバニア大学で助手の職を得て、蛇毒の研究を始める。
こちらでも借金を重ね「野口に金を貸してはならない」と云われるようになる。
1904年
ロックフェラー医学研究所に職を得る。
1911年
「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。一躍、世界の医学界に名前を知られることになった(梅毒スピロヘータの培地による純粋培養については議論がある)。同年、京都帝国大学病理学教室に論文を提出、京都大学医学博士の学位を授与される。
メリーと結婚する。(日本を発つ際の斎藤家子女との婚約は、血脇守之助による斎藤家との交渉と結納金返済により破棄された。)
1913年
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示した画期的なものであった。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定(但し、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)などの成果を発表。
1914年
東京大学より理学博士の学位を授与される。放蕩癖のため帰国費用がなく製薬会社社長の星一に電報を送り大金を送金して貰い帰国の途につく。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。
1915年
15年振りに日本に帰国。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。横浜港には、たくさんの人が出て、野口を出迎えた。世間では、野口フィーバーとも呼べる歓待で、日本各地の講演会にひっきりなしに呼ばれることになる。以後、帰国することはなかった。ただしそれまでの主に金銭面での不義理から背を向ける者も少なからずいた。
1918年
ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原菌発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。
当時、開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。
エクアドルに到着後、9日後(日数については諸説あり)には、黄熱病と思われる病原体を特定することに成功(この病原体は、今日ではワイル病スピロヘータであったと考えられている)。
この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。
この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。
さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がる。
1927年
トラコーマ病原体を発表する(ただし後年否定された)。イギリスの医学者で、西アフリカの黄熱病を研究していたストークスが、野口ワクチンはアフリカでの黄熱病に効果がないという論文を発表する。ストークス自身も黄熱病で死亡。野口はアフリカ行きを決断する。そしてこの年の10月にアフリカへ王熱病研究のため出張する。
1928年
アフリカガーナのアクラに研究施設を建築。
アカゲザルを用いた病原体特定を開始する。
しかしまもなく自身が黄熱病に感染、5月21日、アクラの病室で死亡。
野口英世は「私には分からない」という言葉を口ずさみ、51年の生涯を閉じた。
この年の6月15日、アメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬される。

野口英世語録
○志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)
○人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。
○努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
○絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。
○「ナボレオンは三時間しが寝ながった」(口語)
○「偉ぐなるのが敵討[ガタキウ]ちだ」(口語)
○学問は一種のギャンブルである。
○名誉のためなら危ない橋でも渡る。
○忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語)
○英雄却相親(星一との写真に添え書き)

[感  想]
野口英世といえば、天才科学者で苦労した偉人としてのイメージでしたが、放蕩癖はすごかったようですね。
しかし、小学生向けの野口英世に関する書籍が多く発刊された為、その後、医師を目指すものが多くなったとも言われており、後世への影響は大きいですね。
像は、上野公園の静かな森の中にあり、試験管をもつ悠然とした姿がいいです。


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