ken's銅像探索日誌
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豊臣 秀吉
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豊臣 秀吉 像
(京都府 京都市 東山区 高台寺)

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
(1537年-1598年)
織豊時代の武将

撮影日:2008年6月14日
分 類:武将
評 価:☆☆☆

天文6年生まれ。
尾張(愛知県)の足軽木下弥右衛門の子。
母はなか(天瑞院)。
織田信長に足軽としてつかえ,浅井・朝倉両氏との戦いで功をたて,天正元年近江長浜城主となる。
本能寺の変後,明智光秀,柴田勝家をやぶり,11年大坂城を築城。
徳川家康を臣従させて18年(1590)全国を統一。
この間関白・太政大臣となり豊臣姓を名のる。19年太閤。
文禄元年と慶長2年の2度朝鮮に出兵するが失敗。
太閤検地,刀狩りなどの新政策で兵農分離を促進し,近世封建社会の基礎を確立した。
慶長3年8月18日死去。62歳。
幼名は日吉丸,のち木下藤吉郎,羽柴秀吉。
【格言など】露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

秀吉
豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵 重文)

[エピソード]
◎容姿
・秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書『まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白』などを見るに付てもの中で「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するという説もある。
・毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。
・秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告している(『懲録』)。
・信長は「猿」と呼んでいないとの主張もある。「禿げ鼠」の呼び名も、信長のねねへの書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが1つ現存しているのみで、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。
・秀吉は指が1本多い多指症だったとルイス・フロイスの記録や前田利家の回想録『国祖遺言』に記されている。後者によれば右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時は(現在もそうだが)、多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでその事実を隠すことがなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるものの、いまだにこのことに触れない秀吉の伝記は多い。
・身長は小柄であったが詳しい数字は不明。150cm下から160cm余まで諸説ある。
・髭が薄かったため、付け髭をしていた。当時の戦国武将が髭を蓄えるのは習慣であり、髭の薄いものが付け髭をするのは普通のことであった。
◎九州征伐において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を渡している。同様に小田原の役でも遅参した伊達政宗に佩刀を渡し石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも秀吉のあまりの度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかった。
◎小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。
◎賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別無く被せて回った。『賤ヶ岳合戦記』は「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」と伝えている。
◎賤ヶ岳の戦いの後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。
ただし、徳川家康や伊達政宗を筆頭に豊臣政権に牙をむいた者はおり、少なくとも全員の心を掴んでいたわけではない。
◎秀吉に直接会ったこともあるルイス・フロイスは「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった」と記している。
◎人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加したと伝えられている。武将たちも喜んで通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。
◎今で言う美食家であり、食事には贅沢をした。ただ、後年家来に対し、「位が高くなっていろいろ贅沢なものを食べたが、貧しい時代腹が減ったときに食べた、麦飯ほど美味いものはなかった」と語っている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
高台寺は、豊臣秀吉を弔う為、正室北政所ねねが創建した寺院です。
建物の畳の上におられます。
杖を左手に床机に腰をおろした姿は堂々としています。
高台寺の庭がきれいでした。
DSCN3164.jpg

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