ken's銅像探索日誌
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王 貞治 1
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王 貞治 像 1
(福岡県 福岡市 中央区 地行浜 王貞治ベースボールミュージアム内)

撮影日:2011年11月19日
建設年:昭和53年
分 類:スポーツ選手
作 者:佐藤忠良
評 価:☆☆☆☆

王
王 貞治(おう さだはる)
(1940- ) 
昭和後期-平成時代のプロ野球選手、監督

昭和15年5月20日生まれ。
昭和32年早稲田実業の投打の中心として春の甲子園で優勝。
34年巨人に入団。
3年目に一本足打法となり,長嶋茂雄とともに巨人9連覇に貢献。
39年シリーズ本塁打55本の日本記録,52年には本塁打数で世界記録をぬき,初の国民栄誉賞をうけた。
実働22年,三冠王2回,13年連続をふくめ本塁打王15回,打点王13回,首位打者5回。
通算2786安打,3割1厘,868本塁打。
59-63年巨人監督,62年リーグ優勝。
平成7年ダイエー(現ソフトバンク)監督に就任し,11年日本一,12年リーグ優勝,15年日本一。
18年WBCの日本代表チームの監督となりチームを世界1位の座にみちびいた。
20年ソフトバンク監督勇退。
22年文化功労者に選ばれる。
東京出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎本塁打を打っても大はしゃぎするようなことが無かったのは兄の鉄城の影響である。
高校時代、本塁打を打ってホームベース上で喜ぶ王を見た鉄城は「打たれた相手のことを考えろ」と王を叱りつけた。
以来、王は本塁打を打っても喜ぶそぶりをしなくなった、と言う。
ただし、756号の際に「バンザイ」をしたり、1971年の日本シリーズ第3戦の逆転サヨナラ本塁打で手を叩き飛び跳ねたなどの例外はある。

◎上手い打撃で相手側チーム選手が出塁すると「ナイスバッティング!」と声を掛け、相手側チームの打者であってもその技術を評価した。

◎足腰は非常に強く、一本足で立った状態で子供にぶら下がられてもびくともしなかった。
しかし、腕力は弱く、腕相撲は巨人の野手の中では一番弱かったばかりか(この話は漫画「巨人の星」にも出てくる)、「東洋の魔女」と当時呼ばれていた女子バレー日本代表の選手たちにも負けてしまい、「王さん、手加減しないでくださいよ」と言われてしまったことがある。
そのとき王は、「いや、これで精一杯なんですよ」と弁解した(巨人で一番腕相撲が弱かったのは投手の高橋一三。宿舎などで同僚にコロコロ負けてしまう王はその後必ずといっていいほど高橋を捕まえて腕相撲に勝って機嫌を直していたと言う)。

◎真摯で誠実な人柄で知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。
葬儀に参列した金村義明は、まさか自分のところに王本人から電話がかかってくるとは思わずにいたが、本人の不在中に王からかかってきた電話に出た彼の三男(当時3歳)が「ママ、“ダイエーのおう”から電話!!」と受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りしたというエピソードを披露している。

◎道具を丁寧に扱うことで現役時代から知られており、同じミットを10年以上も使い「新しいものだとゴワゴワしてて慣れるまでに時間がかかる」と自ら裁縫してまで使い続けた(ライバルの長嶋はエラーしたり不調が続くとゲン直しにすぐにグラブを替えたため、現役時代は何十ものグラブが使用された)。

◎若い頃、名古屋の寿司屋で当時中日の人気選手であった板東英二(王とは同学年であり、仲が良かった)と偶然会った際、自分の知人(父親の同胞)が営んでいる小さな中華料理店に連れて行き、「板東もたまには食べに来てやってくれないかな」とお願いした。このことを板東は自分の著書で「王の生い立ちと、優しい人柄が理解できた」と語っている。また、板東が『金妻』シリーズに出演していた当時、巨人監督だった王は「俺も1度出てみたいよ」とうらやましがったという。

◎律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。
キャンプ地に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。
1960年、初めてオールスターに出場した年に札幌山の手養護学校の生徒からファンレターが送られたが、当時すでにスター選手だった王は大量に来るファンレターの1通として読み流してしまい、後からその学校のことを知り、後悔したという。
これ以後、王はファンレターを必ず丁寧に読むようになった。
なお、王は翌1961年以降、監督を退任する1988年まで毎年札幌遠征の際、必ず山の手養護学校を訪問した。

◎若い頃は門限破りの常連で、夜な夜な銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。
王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と述懐している。
ただし、荒川コーチに「お前、本当に上手くなりたいのなら、今日から3年間、酒・タバコ・女全部やめて俺のところで練習しろ。その代わりその3年の後は10年遊んでも、プロとして飯が食えるようになるからな」と言われ酒・タバコを禁止されてからは、完全に改心している。
長年巨人の寮長として活躍した武宮敏明によると、歴代の3ワルは王、柴田勲、堀内恒夫とのこと。3人とも名球会入りしている。

◎若い頃は自動車の運転が乱暴で、スピード狂といってもいいくらいだった。
ある記者が初めて王の運転する車に乗る際、夫人から「気をつけて下さいね」と声をかけられ、その時は王に対しての言葉だと思っていたが、高速道路で鼻歌を歌いながら猛スピードで車を抜かし続ける王の運転から、王の助手席に乗る自分への気遣いの言葉だったと後に気付いたという。
ただし、756号本塁打を打ち国民栄誉賞を受賞してからは、交通ルールを遵守しているという。
ホークス監督就任後、テリー伊藤(早稲田実業での王の後輩にあたる)に「巨人にいた頃は、いくら車が走っていなくても、横断歩道のない所で道路を渡るなんてできなかった」と語っている。
また、愛車及び送迎車は共にレクサス・LSである。

◎大食漢として知られる。子供の頃はおやつ代わりにラーメンやカレーを平らげ、夕食を食べた後もうどんを平らげていた。
大人になってもそれは変わらず、中華料理屋でも出てきた料理を片っ端から平らげる。
そのため、誰も隣に座りたがらなかったという。
大食漢で知られる川上哲治さえも「王はもっとすごい。朝飯が終わると『今日の昼飯は何かな』と言い、昼飯が終わると『今日の夕飯は何かな』と言う。あれにはかなわん」と“敗北宣言”している。
さらに酒豪でも知られ、若い頃は毎晩のように銀座の高級クラブに繰り出し、浴びるように酒を飲んでいた。
飲み比べをして勝てなかったのは横綱の大鵬だけという(王と大鵬は同じ1940年5月生まれという縁もあり、長年にわたる親交がある)。
福岡に来てからはグルメに凝り出して体重が激増。
更にテレビのグルメ番組や料理番組も見始めたという。
第1回WBCの優勝時には、部屋にあったビールを全部1人で飲み干してしまった程である。
胃がんの手術をした際に体重が減った上に一度に物を多く食べられなくなり、もともとの大食漢ぶりや福岡に来てからの食道楽を意識してか退院会見の際、「痩せたね」と体重が減って喜んでいるような発言をした。

◎通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで“やしろ”となる846号を打ったバットを欲しがった為である。このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
福岡ヤフードーム内にある王貞治ベースボールミュージアムにある、
「バッティング」という題の佐藤忠良作の銅像です。
一本足打法を見事に表現している像です。
台座に飾られている王貞治選手の言葉がかっこいいです。
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