ken's銅像探索日誌
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橋本 雅邦
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橋本 雅邦 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

橋本 雅邦(はしもと がほう)
(1835年-1908年)
明治時代の日本画家

撮影日:2007年6月21日
建設年:大正2年
分 類:日本画家
作 者:白井雨山
評 価:☆☆☆

橋本 雅邦
橋本 雅邦
近代日本画の基礎を築いた橋本雅邦画伯
「小江戸探検隊ホームページ」から

天保6年7月27日生まれ。
狩野雅信に入門。
フェノロサ,岡倉天心らの鑑画会に参加し,狩野芳崖らと新画風を開拓。
明治23年東京美術学校(現東京芸大)初の日本画教授となる。
31年辞職して天心とともに日本美術院を創立した。
明治41年1月13日死去。74歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

フェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。
このため明治23年の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。
さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばれ、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
東京美術学校では、下村観山や横山大観、菱田春草、川合玉堂、寺崎広業らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。
しかし明治31年(1898年)には岡倉が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。
以後は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。

「画 業」
同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家。芳崖と共に、狩野派の描法を基礎としつつも洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。
代表作の一つである《白雲紅樹》では、従来の山水画を基にしながら、月の光と空気の透明性を微妙な色彩で表現している。

[代表作品]
•《白雲紅樹》1890年/東京藝術大学大学美術館(重要文化財)
•《竜虎図》1895年/静嘉堂文庫(重要文化財)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

20070813080544.jpg
橋本 雅邦筆 「龍虎図」記念切手

[感 想]
竜虎図は、有名な絵ですね。
像は、表情が細かく表現されています。
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