ken's銅像探索日誌
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伊能 忠敬
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伊能 忠敬 像
(東京都 江東区 富岡八幡宮)

伊能 忠敬(いのう ただたか)
(1745年-1818年)
江戸時代中期-後期の測量家

撮影日:2007年6月21日
建設年:平成13年
分 類:測量家
作 者:酒井道久
評 価:☆☆☆☆

伊能 忠敬
伊能 忠敬
「香取市ホームページ」から

延享2年1月11日生まれ。
養家の下総佐原(千葉県)の酒造業を再興,米穀取引などで家産をきずき,名主となり名字帯刀をゆるされる。
51歳で隠居して江戸に出,高橋至時に天文学をまなぶ。
寛政12年自費で蝦夷地東南沿岸を測量して地図を幕府に献上。
以後,幕府の支援をえて文化13年全国の測量を終了した。
この17年間の実測をもとに「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)を作成中,文化15年4月18日死去。74歳。
上総(千葉県)出身。
本姓は神保。字は子斉。通称は三郎右衛門,勘解由(かげゆ)。号は東河。
【格言など】宜しく先生の墓側に葬り,以て謝恩の意を表すべし(遺言)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆伊能忠敬は、江戸後期の商人・測量家です。
延享2年(1745)に神保貞恒の次男として誕生しますが、18歳で醸造業を営んでいた伊能家に婿養子として迎えられ、傾いていた伊能家を再建。
50歳になったのを機に家業を長男の景敬に譲ると江戸で幕府の天文方を務めていた高橋至時に師事し、測量術や天文観測の技術を習得します。
そして、身につけた技術を用い、それまで不正確な地図しかなかった日本全土の測量(沿海部)に乗り出します。
この時56歳。当時の日本男子の寿命からすると高齢での旅立ちでした。
測量に意義を見出した幕府の手助けもあり、国家的事業となります。
忠敬の努力は、やがて日本では過去に例のない精密地図「大日本沿海輿地全図」として結実しますが、忠敬自身は文化15年(1818)に亡くなり、没後3年を経た文政4年(1821)に事業を引き継いだ弟子たちにより完成を見ました。
この地図は国禁(海外持ち出し禁止)とされ、オランダ商館付き医師・シーボルトが離日に際して写本を作っていたことを咎められて追放処分(シーボルト事件)となるなど、極秘扱いでした。
なお、持ち出された写本はさらに複製され、船舶関係者を始めとする多くの人々の手に渡ります。
当時の欧米人たちは、この地図を見取り図かスケッチ程度の不正確なものとしていました(日本人が独自に測量技術を開発しているという認識がなかった)。
しかし、嘉永6年(1853)に「黒船」を率いて来航したペリー提督が測量船を用いた沿岸測量を行い、その結果と持参していた複製写本を比較したところ、科学測量された精密地図であることが分かります。
日本を文明の遅れた一小国と考えていたペリーは、これをきっかけに認識を改めたといわれています。
銅像は、門前仲町の富岡八幡宮(江戸最大の八幡宮)の境内、大鳥居脇にあります。
除幕は平成13年(2001)で、測量開始200年を記念したものでした。
実は門前仲町と富岡八幡宮は伊能忠敬と縁が深く、当時は深川黒江町と呼ばれていた門前仲町に居住し、測量旅行出発に際しては、富岡八幡宮に参拝して旅の無事を祈願していたそうです。
像は測量旅行時の姿を模した立像で、製作は彫刻家の酒井道久。
忠敬から7代目の子孫にあたる洋画家・伊能洋が監修し、困難な事業に向かう決意と力強さにあふれた像となっています。
像の背後には、日本の地形シルエットと銅像建立の由来を刻んだ石板が置かれ、全体として荘厳さと躍動感が調和した見ごたえのある像になっています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

「伊能の地図」
◎1800年、56歳の時に、第1次測量を開始。
これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。
最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。
ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。
こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された。
完成したのは忠敬没後の1821年であった(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。
後年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚。
これに関係した日本の蘭学者(至時の息子高橋景保ら)などが処罰された。(シーボルト事件)
◎江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている。
◎シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参している。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたが、日本の海岸線を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
最近の銅像ですが、背景の日本地図の壁から飛び出るようで、迫力あります。
56歳から18年かけて日本全国を測量してまわったという努力に敬服します。
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