ken's銅像探索日誌
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伊能 忠敬
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伊能 忠敬 像
(東京都 江東区 富岡八幡宮)

伊能忠敬(いのう ただたか)
(1745年−1818年)
測量家

撮影日:2007年6月21日
分 類:測量家
作 者:酒井 道久
評 価:☆☆☆☆

[年 譜]
1745年 上総国山辺郡小関村の名主・五郎左衛門家で生まれる。
1762年 (18歳)下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入る。
1794年 (50歳)隠居し、家督を長男景敬に譲る。
1795年 (51歳)江戸に出て幕府天文方高橋至時に暦学天文を学ぶ。
1800年 (56歳)第1次測量
1816年 (72歳)第10次測量
1818年 (74歳)死去、喪を秘して地図製作を続行。
1821年 『大日本沿海輿地全図』完成、喪を公表。

[伊能の地図]
○1800年、56歳の時に、第1次測量を開始。
これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。
最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。
ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。
こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された。
完成したのは忠敬没後の1821年であった(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。
後年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚。
これに関係した日本の蘭学者(至時の息子高橋景保ら)などが処罰された。(シーボルト事件)

○江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている。
○シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参している。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたが、日本の海岸線を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われる。

伊能忠敬は、深川界隈に住居を構え、全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ずお参りに来ていた。
2001年、境内に銅像が建てられている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
最近の銅像ですが、背景の日本地図の壁から飛び出るようで、迫力あります。
56歳から18年かけて日本全国を測量してまわったという努力に敬服します。


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