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ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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益田 親施
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益田 親施 像
(山口県 萩市 須佐中津 笠松神社)

撮影日:2012年8月15日
建設年:昭和44年
分 類:武士
評 価:☆☆☆

益田右衛門介肖像(須佐歴史民俗資料館蔵)
益田右衛門介肖像(須佐歴史民俗資料館蔵)
「山口県ホームページ」から

益田 親施(ますだ ちかのぶ)
(1833年-1864年)
幕末の武士

天保4年9月2日生まれ。
長門(山口県)萩藩の家老。
文久3年京都にゆき攘夷親征を建議したが,八月十八日の政変で七卿とともに帰藩。
元治元年禁門の変をおこし、第1次幕長戦争の際の降伏条件として同年11月11日切腹を命じられた。
32歳。名は兼施、親施(ちかのぶ)。右衛門介(うえもんのすけ)の名で知られている。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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須佐中津の笠松神社、主神は益田33代親施である。
境内両脇に建つ灯籠には紛れもなく、「元治四年丁卯八月」と刻字してある。
が、我が国には元治4年という年はない。
文久4年(1864)2月20日元治と改元されたが、翌年4月には慶応と改まる。
元治元年7月、禁門の変で長州軍は敗退、藩主毛利敬親父子は朝敵の汚名を着せられ、幕府の第一次長州征伐へと移行する。
ときに政権を握っていた俗論派は幕府への恭順の意を表するため、同年11月12日、筆頭家老益田親施と家老福原越後、同国司信濃に切腹を命じ、その首級を広島において徳川征長総督の実検にそなえ、長州征伐の難を免れた。ときに親施32歳。
須佐では旧臣によって笠松神社が建立されたが、鳥居と灯籠には「元治四年」と刻銘された。
これは主君の悲憤を思い、徳川慶喜に応ずるの意を思わせる「慶応」の年号を認めぬ反骨精神からで、全国に類例のないことである。
須佐町は昭和51年12月、この灯籠を町の文化財に指定した。
参考文献/三坂圭治著「山口県の歴史」ほか


[感  想]
萩市須佐の小さい笠松神社におられます。
烏帽子を被りきりりとした表情が印象的です。

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灯籠の「元治四年」の刻銘

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鳥居の元治三年の刻銘

第1次幕長戦争の際の降伏条件として切腹させられた三家老の銅像が揃いました。
益田親施
福原越後
国司信濃
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