ken's銅像探索日誌
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アルフレッド・コルトー
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アルフレッド・コルトー 像
(山口県 下関市 豊浦町 川棚 下関市川棚温泉交流センター)

撮影日:2012年10月20日
建設年:平成24年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

コルトーwi
アルフレッド・コルトー
Alfred Cortot
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

アルフレッド・コルトー(Alfred Cortot)
(1877年-1962年)
ピアニスト

フランスのピアノ奏者。
ショパン演奏に一時期を画した。
パリ音楽院を卒業,翌1897年デビューして輝かしい成功をおさめた。
その後ワーグナーに傾倒してバイロイトに行き,1902年「神々のたそがれ」と「パルジファル」のパリ初演を指揮。
05年チェロのカザルス,バイオリンのティボーと結成したカザルス・トリオは、20世紀最高のピアノ三重奏団といわれた。
17年母校のピアノ教授に就任したが意見が合わず辞任、19年エコル・ノルマル・ド・ミュジックを創立、後進の育成に力を注いだ。
「世界大百科事典」から

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『Alfred Cortot アルフレッド・コルトー
川棚を愛し、思いを馳せた、世界的なピアニスト』

コルトー1
世界が酔いしれたショパンの名手
豊かな詩情と多彩な感情、そしてどこまでも艶やかな響き…。
その比類なく美しい演奏で、世界中の聴衆に感動を与えた20世紀前半のフランスを代表する大ピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877-1962年)。
スイス・ジュネーブ近郊に生まれ、幼時期にパリに移ったコルトーはパリ音楽院に進学。
そこで、ショパンの薫陶を受けたエミール・デコム(ドゥコンブ Émile Descombes)に師事し、次第にその天賦の才を開花させていきました。
第一次世界大戦後はピアニストとして欧米を巡演。
とりわけ、ピアノの詩人と謳われたショパンを弾けば、アルトゥール・ルービンシュタインとともに世界を代表するピアニストと絶賛されました。
日本でもショパンのピアノ曲が浸透し始めた昭和初期、コルトーの弾くショパンのSPレコードは、つねにベストセラーになりました。
さらに、コルトーはピアニストだけでなく、指揮者、教育者としても活躍。
1919年には、オーギュスト・マンジョとともに自らの音楽学校「エコール・ノルマル音楽院」を設立し、音楽教育にも惜しみない情熱を注ぎました。

最初で最後となった念願の日本公演
昭和27年(1952年)、晩年期を迎えたコルトーは念願の日本公演を果たし、9月から11月まで全国各地で公演を行いました。
山口県では宇部と下関でコンサートを開催し、この間、コルトーが宿泊したのが川棚温泉のホテルでした。
来日して2週間目を迎えていたコルトーは、まろやかな海となだらかな山に包まれた、やさしい川棚の美しさに魅了され、「私はこれまで世界の美しい海や山を見てきたが、こんなに美しい夢のような島はみたことがない。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。」「日本は素晴らしい。」そういえる国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」と、同行していた愛弟子にもらしたと言われています。

ホテルの部屋で手紙を書くコルトー
ホテルの部屋で手紙を書くコルトー
子息ジャン・コルトー氏との記念写真
子息ジャン・コルトー氏との記念写真

私の思いはひとりあの島に残るだろう
そして、宿泊したホテルの窓から眺めた川棚の美しい風景…。
とりわけ厚島と響灘の美しい風景に魅せられた彼は、当時の川棚村長に「天国のようなあの島でこっそり死にたい。ぜひ買いとりたい」と言ったそうです。
居合わせた人々や村長は大変驚き、最初は冗談だと思い断りましたが、その熱心な気持ちに心打たれた村長と村民は「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と快諾。
コルトーは感激して「トレビアン(感激)」を連発。
「必ずまた戻る」、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。
また、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大いに感動したと伝えられています。
そして、川棚村長は記念碑を建てるため、碑文の揮毫をコルトーへ頼みました。
「この上なく美しいこの島に 友情によって書かれたこの碑文が、願わくば絶えず夢の中に住む精神を持ったいちフランス人音楽家の思いをいつまでもとどめておくができますように」と言い、「音楽は精神の炎を噴出せねばならぬ」というべートヴェンの言葉を自らの信条として日本の音楽学徒に残しました。
帰国後コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。
また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。
しかし、既に75歳だったコルトーは帰国後、病に倒れ、思いは果たせぬまま10年後にこの世を去りました。
その後、川棚村は合併、川棚観光ホテルも廃業となり、やがて孤留島の話は過去のものとして細々と語り継がれるのみとなっていました。
コルトーが感激した景色は今も変わらない
コルトーが感激した景色は今も変わらない

川棚に、コルトーの夢ふたたび
コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。
近年、コルトー没後40年の記念事業として、生前コルトーが周囲に話していた「『カワタナ』で見つけた夢の島」探しが始まり、同校の中沖玲子教授に「コルトーのその夢の島はどこにあるのか調べてほしい」と依頼。
中沖教授が日本の関係者と協力して調査した結果、パリのエコール・ノルマル音楽院から川棚のホテルに1本の問い合わせの電話が入りました。
これをきっかけにコルトーが愛した「カワタナで見つけた夢の島、厚島」と「孤留島」がふたたび結びつきました。
フランスで語り継がれていた「美しい夢の島」の思い出や、彼を取り巻く人たちの輪によって、途絶えかけていたコルトーと豊浦の関係は、数十年ぶりに結ばれることとなりました。
もしかするとコルトーの魂は、彼のもう一つの故郷である厚島に今も住み続けているのかもしれません。
平成15年(2003年)10月、孤留島(厚島)の縁で川棚温泉まちづくり協議会が2007年4月、パリ市のエコール・ノルマル音楽院を訪ね、アンリ・ウジェル校長とコルトーの息子ジャン・コルトー氏と面会。
そして、日仏交流150周年にあたる2008年11月に再びパリで下関市とエコール・ノルマル音楽院とのパートナーシップを結ぶ調印式が執り行われました。

コルトーホール完成。あたらしい歴史が始まる。
2010年1月17日に、コルトーが滞在したホテル跡地に「下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜」が完成。
国際的な建築家、隈研吾氏設計による「川棚の杜」は川棚の豊かな自然と呼応するような有機的な建築になることを目指して設計され、コルトーがこよなく愛した厚島や豊浦のまろやかな山並みを、そのまま具現化したような美しいシルエットを持っています。
地元川棚の文化やアートが楽しめる「烏山民俗資料館」も併設された「川棚の杜」には、音楽ホールとしても使用される大交流室が設けられ、その名も「コルトーホール」と命名されました。
コルトーホールのこけら落としとして「コルトー音楽祭」が開催され、コルトーが設立したエコールノルマル音楽院の最高過程を首席で卒業され、マルタ・アルゲリッチ国際コンクール優勝など輝かしい経歴で世界中で活躍される広瀬悦子さんと、同音楽院教授の中沖玲子さんによる素晴らしい演奏が披露されました。
コルトーの思いは長い年月を経て再び川棚の地に新しい夢を育み始めました。
そして、これから川棚から音楽を中心とした日仏文化交流がはじまろうとしています。
「豊田町観光協会ホームページ」から

[感  想]
完成したばかりの銅像です。
光沢のある上半身の像で、彫りの深い顔立ちが特徴的です。
厚島「孤留島(コルトー)」の話も興味深いものです。
「コルトーホール」も有る「川棚の杜」をじっと見つめられています。
また、厚島「孤留島(コルトー)」の方向を見ているそうです。

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