ken's銅像探索日誌
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島津 重豪
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島津 重豪 像
(鹿児島県 鹿児島市 東千石町 天文館通り)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:大名
評 価:☆☆☆

島津 重豪(しまづ しげひで)
(1745年-1833年)
江戸時代中期-後期の大名

延享2年11月7日生まれ。
島津重年の長男。
宝暦5年11歳で薩摩鹿児島藩主島津家8代となる。
蘭学や本草学をこのみ、藩校造士館、医学院などを創設。
3女茂姫(広大院)が将軍徳川家斉の正室となり、幕府内で重視される。
天明7年隠居し、斉宣に家督をゆずったが、孫の斉興の代まで藩政の実権をにぎった。
天保4年1月15日死去。89歳。
初名は久方、忠洪。通称は兵庫、又三郎。号は南山、栄翁。
著作に「成形図説」「南山俗語考」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎重豪は蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。
◎安永元年(1771年)には藩校・造士館を設立し、儒学者の山本正誼を教授とした。
また、武芸稽古場として演武館を設立し、教育の普及に努めた。
安永2年(1773年)には、明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行なっている。
医療技術の養成にも尽力し、安永3年(1774年)に医学院を設立する。
そして、これらの設立した学問所に通えるのは武士階級だけにとどめず、百姓町人などにも教育の機会を与えている。

◎文化6年(1809年)、近思録崩れ事件が起こった。
これは子の斉宣が樺山主税、秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行なおうとしたものだが、華美な生活を好む重豪は斉宣の政策に反対して彼を隠居させ、樺山らには死を命じた事件である。
そして重豪は斉宣を隠居させ、孫の島津斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握ったのである。
しかし、晩年に重豪は藩の財政改革にようやく取り組み、下級武士の調所広郷を重用した。
調所の財政再建は島津斉興の親政時に成果を見ている。

◎老いてますます盛んな重豪は、曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。
なお重豪は斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。

◎重豪は、ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。
会見したシーボルトは、「重豪公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行なった重豪が、星を指さしている姿だと思われます。
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