ken's銅像探索日誌
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山本 権兵衛
山本0484
山本 権兵衛 像
(鹿児島県 鹿児島市 加治屋町交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:軍人、政治家
評 価:☆☆

山本権兵衛2

山本権兵衛1
「近代日本人の肖像」から

海軍少尉任官当時の山本(1877年)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

山本 権兵衛(やまもと ごんべえ)
(1852年-1933年)
明治-大正時代の軍人、政治家
内閣総理大臣(第16・22代)、

嘉永5年10月15日生まれ。
海軍の改革につとめ、第2次山県・第4次伊藤・第1次桂内閣の海相を歴任。
日清・日露戦争では作戦を統括。
大正2年と12年首相となるが、それぞれシーメンス事件と虎ノ門事件で辞職。
海軍大将、伯爵。昭和8年12月8日死去。82歳。
薩摩(鹿児島県)出身。海軍兵学寮卒。
【格言など】
人力のいかんともなしえざるにいたらば、心静かに天命を待つの覚悟が必要で、うろたえたり、悲しんだりすることは絶対不可である(死期をさとったとき)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎明治31年(1898年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。
山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、様々な施策を行った。
「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」とも公言している。

◎士官には海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣した。
士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出た。

◎艦上での食事の改良にも力を注ぎカレーライスや肉じゃがなど栄養価の高い斬新な献立を奨励し、乗組員の健康管理にまで目を配った。
当時の日本では脚気が問題であったが、栄養価の高い食事や適度なパン食などで、乗組員の脚気はほぼ皆無になった。

◎開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。
開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。
明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。明治37年(1904年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。

◎晩年、元老の候補として何度も名前が挙げられたが、元老になることはなかった。
山本は薩摩・長州出身の総理大臣経験者で、元老にならなかった初めての人物であり、そのため元老になれない理由が憶測として風評されたが、本人は一度も元帥や元老になれないことに対する不満を言うことはなかった。

◎「ごんべえ」「ごんのひょうえ」二つの読み方が通用しているが、有職読み以外で名の読み方が二通りある日本の首相経験者には他に近衛文麿(「あやまろ」「ふみまろ」)の例がある。山本も近衛も、本来の読み方である前者が体裁が悪いため別の読み方をさせたものである。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
これも大山、西郷と共に鹿児島湾に急ぐ、幼い頃の像です。
意志の強さを感じさせる像です。
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