ken's銅像探索日誌
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岩永 三五郎
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岩永 三五郎 像
(鹿児島県 鹿児島市 浜町 石橋記念公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成2年
分 類:石工
評 価:☆☆☆

岩永 三五郎(いわなが さんごろう)
(1793年-1851年)
江戸時代後期の石工

肥後藩と薩摩藩で活躍した石工であり、種山石工の中心的人物である。
妻は藤原林七の長女・三与、嘉八の娘を養女とした。
父と、藤原林七に学び、アーチ式の石橋をつくる技術を学んだ。
三五郎作と言える最初のものは、25歳の時に現在の美里町(旧砥用町)につくった水路橋・雄亀滝橋(文化14年(1817年)架橋)であり、後に通潤橋の手本となった。
これにより名声を得た三五郎は文政3年(1820年)、現在の八代市の干拓工事に従事し、石工共総引き回し役となる。
岩永という姓は、このとき肥後藩より工事期間中に限り名乗ることを許されたものであるが、10年後に工事が完了すると、この功績により正式に苗字帯刀を許された。
その後も肥後藩内に聖橋をはじめとするアーチ式石橋を架け続けた三五郎に、天保11年(1840年)薩摩藩より依頼が来る。
三平らを従え薩摩に赴いた三五郎は、鹿児島の町中を流れる甲突川に甲突川五石橋を川の護岸工事と併せて架けた。
中でも西田橋は参勤交代に藩主が利用する橋だったため、三五郎のつくった橋の中で最も豪華な装飾が施されている。
鹿児島県内には、三五郎作の石橋がこのほか複数残されている。
石橋の建造中、石橋建造技術の漏洩防止のため、三五郎達を永送り(暗殺)するのではないかという噂が立った。
これは三五郎が藩の内情に通じ過ぎたためとも言われる。
かねてよりこの事を心配していた三五郎は、連れてきた仲間たちを様々な口実をつけて肥後に返した。
最後まで残った三五郎自身も、嘉永2年(1849年)に帰郷を許される。
薩摩藩から送られた刺客により現在の出水市付近で捕らえられるが、腹を据えた三五郎の態度に感心した刺客が、秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。
故郷に戻った三五郎は嘉永4年(1851年)、鏡町(現八代市)にて59歳で没する。
同地には現在でも墓が存在する。

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「甲突川五石橋」
鹿児島市を流れる甲突川にかつて架かっていた石橋群。
上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の順。
現在はこのうち玉江橋、西田橋、高麗橋の3橋が石橋記念公園に移設保存されている。

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「高麗橋(こうらいばし)」
1847年(弘化4年)架設。
4連アーチ橋。
アーチ径間は中央2つが12.8m、両端2つが11.2mであった。
水害に伴う河川改修により石橋記念公園へ移設、保存されている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
石橋記念公園におられます。
像は、石工にあやかったのか、石像です。
IMG_0653.jpg
右手に物差しを持ち、自分が造った高麗橋をじっと見つめておられます。
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