ken's銅像探索日誌
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調所 広郷
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調所 広郷 像
(鹿児島県 鹿児島市 天保山町 天保山公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成10年
分 類:武士
作 者:木佐 貴熙
評 価:☆☆☆

調所広郷
「尚古集成館ホ-ムペ-ジ」から

調所 広郷(ずしょ ひろさと)
(1776年-1849年)
江戸時代後期の武士

安永5年2月5日生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
側用人、家老となる。
砂糖の総買い入れ専売制実施、藩債500万両の250年賦償還などにより藩財政を再建。
琉球を通じての密貿易の責任をとって嘉永元年12月18日自殺。73歳。
本姓は川崎。通称は笑左衛門(しょうざえもん)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。
藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。
天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。
当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い。だが、実際には明治5年(1872年)の廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言されてしまった)にし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。
一部商人資本に対しては交換条件としてこの密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせている。
そして大島・徳之島などから取れる砂糖の専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。

◎明治維新の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大である。
薩摩藩が維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有し羽振りが良かったのは一世代前に500万両に及ぶ借金を「踏み倒し」、薩摩藩の財政を再建した広郷のお蔭と言える。

◎藩主斉興の後継者を巡る長男島津斉彬とその異母弟島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。
これは、聡明だがかつての重豪に似て西洋かぶれである斉彬が藩主になる事で再び財政が悪化する事を懸念しての事であると言われている。

◎斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。
その後、斉彬派の西郷隆盛や大久保利通が明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け一家は離散する。
斉彬排斥の首謀者は斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり弾劾出来なかったので、一層調所家への風当たりが強くなったものと考えられる。
広郷の財政改革が後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、現在の日本の近代化が実現されたと評価されるようになったのは戦後のことである
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
天保山公園の松林の中におられます。
上下を着て、床机に座り真っ直ぐと前を見つめている姿です。

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