ken's銅像探索日誌
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天璋院
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天璋院 像
(鹿児島県 鹿児島市 城山町 黎明館)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成22年
分 類:その他
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

天璋院 てんしょういん
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天璋院(てんしょういん)
(1837年-1883年)
幕末-明治時代、徳川家定の正室

天保7年12月19日生まれ。
島津斉宣の孫。島津忠剛の娘。
はじめ島津斉彬、ついで近衛忠煕の養女となり、安政3年13代将軍家定と結婚。
5年家定の病死後は出家した。
明治16年11月12日死去。48歳。
薩摩(鹿児島県)出身。名は敬子(すみこ)。通称は篤姫。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎渋谷の藩邸から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても最後尾は依然、藩邸にいたという。
安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。
なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。

◎慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還をするも、その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされた。
その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、これを実現した。
そして、江戸城無血開城を前にして大奥を立ち退いた。
慶応4年(1868年)4月に新政府から従三位の位階を剥奪されている。

◎明治維新後は、自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走していた。
そのため、死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかったという。

◎明治維新後も、東京を離れることはほとんどなく、明治10年に箱根塔ノ沢で病気療養中の和宮を見舞うため箱根を訪れたのが生涯唯一の旅行となった。
ただし箱根に到着したのは和宮が薨去した後になったため、天璋院は和宮を弔い、和歌を贈っている。

◎2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』では小松帯刀と共に過ごすシ-ンが多くあったが、両者の接点を記す史料は確認されていない。

◎愛犬家であり、結婚前には狆(チン)を多数飼っていたが、夫・家定が犬嫌いだったため大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。
その猫の費用は25両/年、世話係は3人もおり、その一人が大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪にあたり、後に大奥の内情を三田村鳶魚に語った御中臈・ませである。

◎日本人として初めてミシンを扱った人物と言われている。因みにミシンを贈ったのはペリ-提督だという説が一般的である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
薩摩藩主島津氏の拠点となった鹿児島(鶴丸)城本丸の跡に建つ、鹿児島県の歴史資料センタ-黎明館の敷地におられます。
NHKの大河ドラマで一躍人気となった篤姫の像です。
装束姿で、前をしっかり見つめる凛とした姿が印象的です。

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黎明館をじっと見つめておられます。


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像の後ろの石壁には、
「私事一命二かけ是非是非御頼申候事二候」という
嘆願書の一節が彫られています。
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