ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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島津 斉彬
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島津 斉彬 像
(鹿児島県 鹿児島市 照国町 照国神社)

撮影日:2012年11月17日
建設年:大正6年
分 類:大名
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

200px-Nariakira_Shimazu.jpg

斉彬の写真(1857年撮影、尚古集成館蔵
斉彬の写真(1857年撮影、尚古集成館蔵)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

島津 斉彬(しまづ なりあきら)
(1809年-1858年)
幕末の大名

文化6年9月28日生まれ。
島津斉興(なりおき)の長男。
嘉永4年(1851)薩摩鹿児島藩主島津家11代となる。
藩営の工場集成館を設立し、殖産興業、富国強兵策をすすめる。
養女篤姫(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして、幕府への発言力をつよめる。
将軍継嗣問題では西郷隆盛らをもちいて一橋慶喜擁立運動をすすめたが、
安政5年7月16日急死。50歳。
初名は忠方。通称は又三郎。号は惟敬、麟洲。
【格言など】勇断なき人は事を為すこと能(あた)わず(「斉彬公言行録」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎最も早く写真に撮影された大名であるといわれている。
また撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心に富んだ人物であったといわれている。
斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来であったと伝えられている。

斉彬が撮影したといわれる斉彬の娘たちの写真
斉彬が撮影したといわれる斉彬の娘たちの写真。左から典姫・暐姫・寧姫

◎松平慶永(福井藩主)、山内容堂(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。
しかし慶永は後世において、「大名第一番の御方であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない」と語ったといわれる。

◎西郷隆盛ら後の維新志士らから慕われ、西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどである。
斉彬の功績は明治時代を築くことになる人材を育て上げたこともその一つといえる。

◎理化学に基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見破り、自身もアルファベットを学ぶなど高い世界認識をもっていた。

◎『島津斉彬言行録』には「君主は愛憎で人を判断してはならない」、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」など、近代的な人材登用策を示していたことが覗える記述もある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
鹿児島市照国神社の隣接しておられます。
束帯に笏(しゃく)を右手に持った堂々とした立ち姿です。
肖像画から島津斉彬は、太っているイメ-ジでしたが、銅像の顔はやせた感じです。
台座も丸に十の字の家紋と彫刻が施され立派です。

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