ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

島津 義弘
IMG_0836.jpg

IMG_0833.jpg

IMG_0838.jpg

IMG_0856.jpg

IMG_0835.jpg

IMG_0834.jpg
島津 義弘 像
(鹿児島県 日置市 伊集院町 伊集院駅)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和63年
分 類:武将
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆☆

島津 義弘(しまづ よしひろ)
(1535年-1619年)
戦国-織豊時代の武将

天文4年7月23日生まれ。
島津貴久の次男。
島津氏17代。
兄義久とともに九州をほぼ平定。
天正15年(1587)豊臣秀吉に敗れたが、大隅領有はゆるされる。
文禄・慶長の役で朝鮮に出陣、泗川の戦いで明(中国)の大軍を破る。
関ケ原の戦いでは西軍に属し、敵中を縦断して退却した。
元和5年7月21日死去。85歳。
薩摩(鹿児島県)出身。
初名は忠平、義珍(よしまさ)。通称は又四郎。号は惟新。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

IMG_0832.jpg

[エピソ-ド]
◎関ヶ原の戦い・島津の退き口
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。
しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。
その結果、この時点で300人(1000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。
この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。
島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。
島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。
このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。
その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。
この逃走劇に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した。
しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。
このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。
その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦並びに東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。
義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。
生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。
また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。
この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

◎家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かった。
この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。また敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。

◎祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。

◎許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。
また家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。

◎義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。
このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった。

◎義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した。
また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている。

◎九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。
そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。
この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている。

◎秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。
この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。

◎愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。
朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

◎武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。

◎若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。
弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎打ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。
また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。

◎木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。
この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。

◎関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。
しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。

◎義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫ですか?」と尋ねると「大丈夫だ。小姓どもは悪いことばかりして手を焼かせおる」と返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)

[銅  像]
JR九州伊集院駅前には義弘の馬上姿の銅像がある。
関ヶ原でまさに敵中突破をする瞬間をイメ-ジした銅像といわれている。他にも木崎原古戦場跡などにも石像がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鹿児島中央駅からJRでわざわざ伊集院駅までへ行きました。
遠いところを来た甲斐があると思わせる素晴らしい像です!
馬上の武者姿で采配を右手に持ち、まさに飛び出してきそうな躍動感あふれる姿です。
多くの武勇伝を持つ猛将であり、また家来や家庭を大切にする人物で好感が持てます。
熊本県菊池市の菊池武光像と同じく中村晋也の作の満点像です。

IMG_0850.jpg
スポンサーサイト


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
→http://kendouzou.blog115.fc2.com/tb.php/471-ccb1b54f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。