ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

若き薩摩の群像
IMG_0829.jpg

IMG_0830.jpg

IMG_1015.jpg

IMG_1008.jpg

IMG_0998.jpg

IMG_1021.jpg
若き薩摩の群像
(鹿児島県 鹿児島市 中央町 JR鹿児島中央駅前広場)

撮影日:2012年11月18日
分 類:薩摩藩士
建設年:昭和57年
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

JR鹿児島中央駅前の広場に建つ、幕末に英国に密航留学した青年薩摩藩士たちの勇気と功績を称える17人の銅像。

17人の名前(密航当時の年齢)は、
1 新納 久脩  (34歳)
2 町田 久成  (28歳)
3 松木 弘安  (23歳)
4 五代 友厚  (29歳)
5 名越 時成 (19歳)
6 吉田 清成 (20歳)
7 中村 博愛 (24歳)
8 市来 和彦 (24歳)
9 森 有礼  (21歳)
10 村橋 直衛 (23歳)
11 畠山 義成 (23歳)
12 鮫島 尚信 (23歳)
13 田中 盛明 (24歳)
14 東郷 愛之進(21歳)
15 町田 実積 (19歳) 
16 町田 清次郎(15歳)
17 磯永 彦助 (14歳)

銅像になっていない留学生
◎高見 弥一(34歳)土佐藩出身
◎堀 孝之(21歳)長崎出身通訳

倫敦到着後の留学生
ryu01.jpg
(後列左から)高見弥一・村橋直衛・東郷愛之進・名越時成
(前列左から)畠山義成・森有礼・市来和彦・中村博愛 

ryu02.jpg
(後列左から)田中盛明・町田実積・鮫島尚信・松木弘安・吉田清成
(前列左から)町田清次郎・町田久成・磯永彦助 
「薩摩藩英国留学生記念館(仮称)準備室ホームページ」から

[銅  像]
昭和57年3月建立。
高さが12.1m(台座部分9.49m)
中村晋也制作

IMG_1026.jpg

「若き薩摩の群像」
九州新幹線の終着駅・鹿児島中央駅に降り立つと、桜島を背景にしてそびえ立つ「若き薩摩の群像」の銅像がまず目に飛び込んでくる。
鹿児島の玄関口ともいうべき鹿児島中央駅の正面に立つこの銅像は、郷土の英雄西郷隆盛でもなく大久保利通でもない、幕末に鎖国の国禁を破ってイギリスに渡り、その後日本の近代化に大きな役割を果した十九名の薩摩藩英国留学生を顕彰するモニュメントである。

「薩英戦争から留学生の派遣へ」
薩摩藩の欧米への留学生派遣については、集成館事業で知られる島津斉彬がすでに構想を抱いており、実際に計画も進めていた。
攘夷思想が主流の時代にあって、世界の動きを正確に把握していた斉彬は、日本の近代化を進めるために留学生の派遣を模索していたのである。
その後再び留学生派遣の件が話題に上るのは、文久三年(一八六三年)に起った薩英戦争の後である。この戦いではイギリス艦隊に搭載された開発されたばかりのアームストロング砲が容赦なく鹿児島城下を襲い、集成館や台場などがことごとく破壊された。
身を以て大英帝国の軍事力・技術力を知った薩摩藩は、その後急激にイギリスに接近し、近代化を進めていく。
長崎を拠点とするイギリス商人グラバーと親密な関係を持つのもこの頃からである。
元治元年(一八六四年)には、欧米の技術・学問・語学などを学ぶための開成所が創設され、教授陣には全国からの一流の学者に加え、アメリカ帰りの中浜万次郎(ジョン万次郎)なども招かれた。留学生はその開成所の生徒から選抜された。
ところで、留学生派遣について詳細なビジョンを持っていたのは、五代友厚であった。五代はすでに海外渡航の経験もあり、藩内きっての開明派として知られた逸材である。人選等は難航したが、五代の案をもとに、最終的には家柄・年齢・思想面などの点で各層から幅広く選ばれ、それに随伴の使節と通訳を加えた陣容となった。

「遙かなる大地へ」
慶応元年三月二十二日(一八六五年四月十七日)、薩摩藩留学生一行十九名を乗せたグラバー商会所有の蒸気船オースタライエン号は、串木野郷羽島浦を出航した。
当時はまだ鎖国下で海外渡航は厳禁であるため、表向きは大島・甑島へ出張ということにして、万が一幕府に露見した場合も想定して、全員変名を用いることにした。
日記を読むと、出航時の彼らの心境は、まるで戦場に向かうようなものであったと察せられる。現在ならば宇宙旅行に旅立つようなものであろうか。
ここで一行の顔ぶれを見てみよう。
正使は大目付の新納久脩(三十四歳)で、帰国後は家老に就任し、藩政を担った人材である。副使は町田久成(二十八歳)で、開成所掛(学頭)という立場上、他の留学生十四名の監督役を務めた。帰国後は東京国立博物館を創設したことで知られている。その他、随伴使節として寺島宗則(三十三歳)と五代友厚(二十九歳)、そして通訳の堀孝之(二十一歳)を加えて総勢十九名である。
一行は、各寄港地でガス灯や蒸気機関車に驚いたり、西洋人が人前で堂々とキスすることに驚嘆しながら、二カ月余りかけてイギリス南部のサウサンプトン港に入港した。
ロンドン到着後、一行は大学への入学に備え語学の特訓に励んだが、鉄工所や農園などの視察なども精力的にこなしていることが分かる。
留学生たちはロンドン大学に入学し、それぞれの専門分野を学んだ。
当時の学籍簿が今でも大学資料室に残っている。
その間、寺島はイギリス外務省筋との外交交渉を行い、同国の対日政策を薩摩藩に有利な方向へ導き、五代は産業視察や紡績機械の購入、さらには貿易会社「ベルギー商社」設立に向けて精力的に動いた。
新納・町田・寺島・五代は、国元(薩摩藩)にヨーロッパ情勢や留学の成果を逐一書き送っている。それらの情報は、倒幕を進める薩摩藩にとって、日本を取り巻く欧米の動向を分析する上で、極めて重要な情報となった。
なお、留学生中最年少の長沢鼎(十三歳)については、一人スコットランドのアバディーンにあるグラバーの実家に引き取られ、そこから地元の中学に通った。地元の新聞に成績優秀者として長沢の名前が掲載されており、真剣に勉学に励んだことが察せられる。
留学生の大半は二年間ほどで帰国するが、森有礼などはその後アメリカへ渡り、明治初めまで見聞を広め近代的な知識や思想を学んだ。彼らの培った知的財産は、明治日本が近代化を進めるにあたって、あらゆる分野で極めて重要な役割を果すことになった。
まず外交の面では、外務卿として不平等条約の改正に尽力した寺島宗則を筆頭に、鮫島尚信・中村博愛などがヨーロッパ外交に大きな足跡を残している。教育界では、初代文部大臣として教育制度の基礎を作った森有礼をはじめ、東京開成学校(後の東京大学)初代校長の畠山義成等が特筆される。
生野銀山の開発に尽力した朝倉盛明やサッポロビールの創設に尽した村橋久成、大阪商工会議所を設立し初代会頭に就任した五代友厚などは、殖産興業の面で大きな功績を残している。

「銅像がない二人」
ところで、冒頭に十九名の薩摩藩英国留学生と書いたが、鹿児島中央駅前の銅像をよく数えてみると、十七人しかなく二人足りない。銅像を建立する際、二人は鹿児島出身でないという理由で除かれたという。
一人は土佐藩出身の高見弥一で、本名を大石団蔵といい、土佐から薩摩藩に亡命した人物である。文久年間に薩摩藩士として抱えられ、開成所に学び留学生に選抜された。帰国後は鹿児島高等中学造士館などで数学を教え、明治二十九年(一八九六年)年、鹿児島で五十三歳の生涯を閉じている。
もう一人は長崎出身の堀孝之である。臨時的に通訳として雇われたのではなく、パリ万博に薩摩藩が参加した際にも同行している。堀と薩摩藩との繋がりは曾祖父の代から続いており、帰国後も薩摩藩の船奉行見習として長崎において重要な役割を果した。
薩摩藩は一般には極めて閉鎖的なイメージがあるが、実際には人材登用・情報収集などについては力を入れており、幕末期においては薩摩藩を中心としたネットワークは群を抜いていた。薩摩藩が明治維新において主導的な役割を果たせた背景には、このような点があることも見過ごしてはならない。

「語り継がれる功績」
昭和五十八年(一九八三年)十一月に来日したアメリカのレーガン大統領は、国会演説の中で「サムライから実業家になった長沢鼎の功績は、日米両国の友好の歴史の中で特筆すべきことがらである」と紹介した。
長沢はイギリスからアメリカに渡り、カリフォルニア州サンタ・ローザでブドウ園とワインの製造を手広く経営している。地元では名士として人々の尊敬を集め、昭和九年(一九三四年)に八十三歳で同地で亡くなった。レーガン演説を機に改めてその功績を顕彰する動きが高まってきた。
留学生の渡航から百四十年目の今年、地元鹿児島ではご子孫なども招待しての記念イベントや企画展が盛大に開催される。また、九月には村橋久成の胸像が、北海道庁の知事公舎に建立される予定である。
百四十年の時空を経て、彼らの精神や功績は脈々と語り継がれていく。
「あっと九州ホームページ」から

【鹿児島市 県外出身の2人追加を 若き薩摩の群像完成させる会 市長に要請書】
鹿児島市のJR鹿児島中央駅前にある、薩摩藩英国留学生のモニュメント「若き薩摩の群像」に、県外出身者2人の像の追加を求める「若き薩摩の群像を完成させる会」(島津修久会長)は26日、同市の森博幸市長に、要請書を提出した。
要請書では「出身地こそ違うが2人は紛れもない薩摩藩士との文献もある」「(県外出身者ということで2人が除外されている現状では)市民に誇れるはずのモニュメントが、鹿児島の閉鎖性を表すシンボルになる」などと指摘。島津会長らは「建立25年、60万都市になった今こそ追加建立を」と求めた。
森市長は「市民や専門家、制作者の意見などを聞き、できれば新幹線鹿児島ルートの全線開業までには結論を出したい」と述べた。
モニュメントは、幕末に国禁を犯して英国に留学、明治維新後の近代国家づくりに貢献した薩摩藩留学生の17人の群像。市が1982年、50万都市達成を記念して建立したが、19人の留学生のうち、通訳として同行した長崎出身の堀孝之と、土佐藩を脱藩後、薩摩藩士となった高見弥一の2人は除かれた。
「2007/09/27付 西日本新聞朝刊」から引用

[感  想]
鹿児島の玄関にふさわしい若さと躍動感にあふれる銅像です。
有名人は、いませんが、その後の活躍は素晴らしいものがあります。
17人もの人が一緒の銅像というのもこれだけでしょう!
あと、2人追加という動きも有るようです。
2007年に一度写真に撮りましたが、
2012年に再度詳しく個々の写真を撮影しました。
スポンサーサイト


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
→http://kendouzou.blog115.fc2.com/tb.php/474-313439cd
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。