ken's銅像探索日誌
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町田 久成
2町田久成2
2 町田 久成 像

町田 久成(まちだ ひさなり)
(1838年-1897年)
幕末-明治時代の武士,官僚

天保9年1月生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
元治2年藩命で森有礼らと渡英。
維新後,文部大丞などを歴任。
のち内務省博物局長として博物館創設につくし,初代帝国博物館館長となる。
晩年は仏門にはいった。
古美術研究で知られる。
明治30年9月15日死去。60歳。
通称は民部。号は石谷。変名に上野良太郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎ヨーロッパ滞在中に博物館事業の重要性を認識し、維新改革、廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館創設事業に携わる。
官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。
書画篆刻を自らよくし、美術品の鑑定眼が優れていた。

◎町田は美術品の中でも特に和楽器に関心を持っていた。
ある時祇園の茶屋で遊んでいた際に芸妓が持っていた古い琴に惚れ込み、ゆずってもらえないかと頼みこんだものの断られたので、琴を芸妓ごとを身受けし、琴だけを手元に残して芸妓には暇を出したと伝えられている。

◎音楽にも造詣が深く山井景順に師事して横笛を学んだ。
内山下町博物館の時代には舞楽の会や管弦の会を宮内省の宮中の令人たちを招いて定期的に展示物の和楽器を使って開催していたほか、個人でも隅田川にて舟遊合奏会を開催するなどしていた。

◎井上馨が町田に伊万里の土を使ってフランスの陶工に焼かせた花瓶を見せたところ町田は土は日本のものだが焼き方は日本や中国のものではないので自分にはわからないと答えた。
後日九鬼隆一にも同じことを聞いたところ伊万里焼だと答えたので、井上は町田が分からないと答えたのは確かに理解している証拠だとして九鬼の鑑識は町田には遥かに及ばないと言ったという。

◎明治天皇の銀婚式に杉に参加するように請われたところこの時既に出家していた町田は貧しい姿をして宮門に参上した。
警備のものが不審者と思いこれを止めたところ町田はその通りである。
乞食坊主がこのような尊い儀式に参加するのは最も恐れ多い次第である。
初めは参賀は恐れ多いので断ったのだが、参賀を厳達されたのでやむを得ず着た次第なりと答え警備の者の言うとおり引き返そうとするところで連絡を受けた杉孫七郎が町田の悪戯には困ると言って通すように言ったという。

◎ある骨董商が、庵を立て月に200円の布施をするので自分以外の骨董商の品の鑑定をやめてくれないかと頼んだところ。
好意はありがたいが自分はようやく世間の煩を免れたところであり、自らの如き乞食坊主を金儲けの餌に使うのは友人としてあまりに過酷ではないか。御免被ると答えた。

◎ある日知り合いの料理屋の主人が町田のもとを訪れ、ある玉の鑑定書を請うた。
町田がその鑑定書をなんに使うのかと聞いたところ、町田の鑑定書があればある銀行家が2万5千円で買う約束があると答えたので、それは面白い。
乞食坊主が書いた紙切れにそんな価値があるとは恐れ入る。
それではあなたはいかほど布施をするのかと併せて聞いたところ、一般の商習慣に則って1割2千500円を布施するとのことだった。
町田はそれに対して2万5000円を布施すれば立派な奉書紙に書いてやると答えたので聞いていたものらは大笑いしたという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋
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