ken's銅像探索日誌
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毛利重就
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毛利 重就 像
(山口県 防府市 防府天満宮)

毛利 重就(もうりしげたか)
(1725年−1789年)
長州藩第8代藩主

撮影日:2007年8月9日
分 類:大 名
評 価:☆☆

経  歴
1725年
長州藩の支藩である長府藩主毛利匡広の十男として産まれる。
1751年
長州藩第8代藩主として家督を相続する。
長州藩は、天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し財政赤字に陥っていた。
重就は、藩主就任と同時に家老坂時存、長沼正勝ら三家老を招集し改革案の提出を要請する。
1753年「三老上書」が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。
重就は、まず検地を行い8年後には、4万石になる収入を得ることに成功し、この収入を藩財政には組み込まず撫育方[ぶいくかた]という基金を設立させ、こちらの収入として充てる。
撫育方はこの資金を元手に1764年鶴浜の開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積、中関の港整備を行う。
港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い利益を得る。
また、塩田開発も進め明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた。
一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされる事にもなった。
天明2年(1782年)に重就は、家督を治親に譲り隠居し、
7年後の1789年死去、享年64。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感 想]
防府天満宮の奥におられます。
若いときの姿のようで、端整でスマートな感じです。


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