ken's銅像探索日誌
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佐藤 栄作
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佐藤 栄作 像
(山口県 熊毛郡田布施町 下田布施 田布施町郷土資料館)

撮影日:2013年3月12日
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

佐藤栄作1961年頃に撮影
1961年頃に撮影

佐藤 栄作(さとう えいさく)
(1901年-1975年)
昭和時代後期の政治家
内閣総理大臣(第61・62・63代)

明治34年3月27日生まれ。
佐藤市郎、岸信介の弟。
運輸次官をへて、昭和23年第2次吉田内閣の官房長官。
翌年、衆議院議員(当選10回)。
25年自由党幹事長となるが、造船疑獄事件で辞任。
のち蔵相、通産相などを歴任し、39年自民党総裁、首相。
7年8ヵ月政権をにない、日韓基本条約を締結し、沖縄返還を実現した。
49年ノーベル平和賞。
昭和50年6月3日死去。74歳。
山口県出身。東京帝大卒。
【格言など】沖縄が祖国に返らなければ、日本の戦後は終らない
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

内閣総理大臣を3期務めた。
総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。
20世紀生まれ初の総理である。
自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。
また、第56・57代内閣総理大臣岸信介の実弟にあたる。
なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。

Sato_and_Nixon_1972.jpg
アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンと(1972年)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[エピソ-ド]
◎彫りの深い顔立ちで、くりくりとした大きな目が特徴的だった。
その見開いた目で睨みつけられると誰もが戦慄を禁じ得なかったという。
「ギョロ目の睨み」といえば歌舞伎の世界では「市川團十郎」の代名詞だが、特に59年ぶりに十一代目市川團十郎の襲名となった1962年(昭和37年)は團十郎ブームに湧いていた。
佐藤もその恩恵をうけて、ついたあだ名が「政界の團十郎」。
評論家の佐々淳行も著書のなかで「團十郎ばりの巨眼で(佐藤に)睨みつけられたという秘書官がいた」と記している。

◎癇癪持ちで、じっと我慢は苦手だったという。
発話がドモリぎみということもあり、腹をたてると口より先に手が出ることが多かった。
手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。
寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若い頃主人に殴られたことがある」と洩らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。


◎短気な一面については、長男の龍太郎が父・栄作について「『待ちの政治家』と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...」と述べている。

◎首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。
1972年(昭和47年)に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出て行ったという。

◎自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。
東宮の侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言した時は、「無礼じゃないか! おれは総理大臣だぞ」と怒鳴りつけた。

◎三木武吉は岸信介に対し「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」と呆れたように言ったという。

◎田中義一元首相の長男田中龍夫は「岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね」と述べている。

◎倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記 (全7巻)』が朝日新聞社より、1996年(平成8年)から1997年(平成9年)に刊行された。

◎『佐藤栄作日記』では、総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが伺い知れる。好まれた一人に宮澤喜一がおり、宮澤の知性を佐藤が評価したためといわれる。一方、政敵河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したとされ、冷酷な一面を覗かせた(日記にも残忍たげたげしい人が去ったという趣旨の記述がある)。
◎マスコミ嫌いで知られ官房長官時代から社説に酷評されていた。特に朝日新聞を毛嫌いしており日記において名指しで「征伐にかからねばならない」と書かれたことがある他、秘書官を務めていた楠田実に新聞記事や週刊誌の記事に対する抗議を命じ時には楠田自身も板ばさみで悩んでいた様子が楠田の著書や日記に記されている。特に自らの意図と違う報道をされた際には激怒したという。しかし前述の通り、没後に日記は朝日新聞社から刊行された。

◎大野伴睦を偲ぶ会に出席し「“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」と述べた。但しこれは本心からの発言ではない。佐藤と大野は犬猿の仲で知られ、佐藤は大野には庶民性しか褒めるところがないからそう言ったのだと回想している(これを受けてか横山ノックが佐藤に“栄ちゃん”と呼びかけたことがあるが、これに対して佐藤は非常に不快そうな表情を浮かべたとされる。青島幸男も"栄ちゃん"と呼んだとされるが横山の方が周知されている)。

◎1971年(昭和46年)10月19日の夜半、総理私邸内に若い男の刺客が侵入したが、難を逃れた。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
岸夫婦と同じく夫婦並んで像です。
彫りの深い顔の特徴をよく捉えた像です。
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佐藤栄作遺品展示室には、ノーベル平和賞をはじめ主要な文書、書簡、扁額、愛用の遺品、誠心誠意の国政を記録したパネル等が展示してあります。
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ノーベル平和賞のメダル・沖縄返還記念メダル


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