ken's銅像探索日誌
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河野 通有
河野IMG_1892 (2)

河野IMG_1892 (1)
河野 通有 像
(愛媛県 松山市 北立花町 井出神社)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成7年
分 類:武将
作 者:溝淵 清美
評 価:☆☆☆

河野 通有(こうの みちあり)
(1250年-1311年)
鎌倉時代の武将

河野通継の子。
弘安4年(1281)の蒙古襲来の際、伊予(愛媛県)の水軍をひきいて参戦。
博多湾の上陸阻止用の石塁を背に陣をはり、豪胆ぶりをうたわれる。
志賀島の戦いでも、元船に夜襲をかけ敵将を捕らえる。
のち幕府の命で西国の海賊を追捕した。
応長元年7月14日死去。
通称は六郎、弥九郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「元寇での活躍」
弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。
博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。
これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。通有は志賀島の戦いにおいて叔父の河野通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。

『蒙古襲来絵詞』
『蒙古襲来絵詞』

竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には、季長が負傷した通有を見舞った様子が描かれており、絵巻の注釈に河野の家では合戦が落居しない間は烏帽子を着けないこと、通有の直垂は平家との戦いで祖先の河野通信が源氏の味方に参上した時着けていたものである事が描かれている。
縁側には通有の嫡子河野の八郎が座っており、庭には通有の旗指しが控えている。奧の妻戸は本来なかった所を絵師が書き誤ったものという注釈がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
井出神社境内におられます。
烏帽子に鎧の武者姿で、右手に笏、左手に刀を持った立ち姿の石像です。
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