ken's銅像探索日誌
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秋山 好古 1
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秋山好古2IMG_1830 (7)
秋山 好古 像 1
(愛媛県 松山市 歩行町 秋山兄弟生誕地・生家)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成16年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆☆

秋山好古 肖像
秋山 好古(あきやま よしふる)
(1859年-1930年)
明治-大正時代の軍人

安政6年1月7日生まれ。
秋山真之の兄。
陸軍乗馬学校長、清国駐屯軍守備隊司令官、近衛師団長、朝鮮駐箚軍司令官、教育総監などを歴任。
大正5年大将。
騎兵を育成して戦術・訓練を研究し、日清・日露戦争で名をあげた。
昭和5年11月4日死去。72歳。
伊予(愛媛県)出身。陸軍大学校卒。
通称は信三郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

秋山好古2IMG_1830 (5)
「秋山兄弟生誕地」
秋山家は、江戸末期の天保年間から現在地に家を構えていました。
好古が北予中学校の校長時代に住んでいたのは、自分が生まれた当時の家(4部屋と土間、台所の質素な家)に若干手を加えただけのものだといわれています。
現在の建物は、当時の設計図がないことから、好古が住んでいた時にしばしば訪問していた親戚の石井悦子さん(群馬県在住)や、好古四女:米田治子さん(故人)などからの聞き取りや、当時の写真を検証して建設されたものです。
当時の湧水を今に残す井戸など、在りし日の暮らしが再現されています。
「松山市ホームページ」から

[エピソード]
◎風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。

◎青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。
フランス留学中の秋山
フランス留学中の秋山

◎酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいの事が出来部下たちを感嘆させた。しかし酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。

◎極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。

◎福澤諭吉を尊敬しており、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとした。

◎書に長けており、退役後は揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。

◎晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事は無かった。

◎愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。

◎弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「将来あし(自分)が豆腐(の固まり)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」と両親へ懇願した。

◎欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。

◎第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。

◎フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

◎陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
昭和11年に道後公園に建てられた好古の銅像は、昭和18年に、戦時中の供出で消滅した。そのレプリカが、秋山家親族や地元の設立功労者に配られており、今日まで残っていたので、それをもとにして、生家の復元に合わせて、原寸大の騎馬銅像を復元したもの。

[感  想]
日本騎兵の父と言われた、秋山好古の騎馬像です。
黒光りする像で、彫の深い顔や髭、軍服など細かいところまでよく造られています。

秋山好古2IMG_1830 (1)
じっと弟の真之の銅像を見つめています。
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