ken's銅像探索日誌
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山田 方谷
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山田 方谷 像
(岡山県 高梁市 向町 高梁市郷土資料館)

撮影日:2014年9月13日
建設年:昭和51年
分 類:儒者
作 者:宮本 隆
評 価:☆☆☆

山田方谷
山田 方谷(やまだ ほうこく)
(1805年-1877年)

江戸後期-明治時代の儒者
文化2年2月21日生まれ。
佐藤一斎らにまなび、天保8年備中(岡山県)松山藩藩校有終館学頭。
藩主板倉勝静のもとで財政改革をおこない、勝静が老中につくと顧問となる。
維新後は岡山県閑谷学校の再興につくした。
明治10年6月26日死去。73歳。
名は球。字は琳卿。通称は安五郎。著作に「古本大学講義」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎方谷の思想は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。また、至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。例えば、他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという。
安岡正篤は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している。

◎嘉永5年(1852年)に牛麓舎の隣家に住まう一藩士が病没し、その寡婦が方谷宅の門を叩いた。寡婦は父を亡くした自らの7歳の娘に、母子家庭の娘と侮られぬよう、男性と互して能うほどの学問を施してもらうよう方谷に請うた。方谷は忙しい最中ではあったが、それを快く引き受けて男女の別を気にする事無く、その才気ある娘を牛麓舎に通わせ、自らの学を与えたとされる。その娘こそが、後に高梁の地で女子教育の普及に努める事となる福西志計子であった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
高梁市郷土資料館の前におられます。
DSCN8361.jpg
裃を着て、右手に扇子を持った立ち姿で、おだやかな表情が印象的です。
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