ken's銅像探索日誌
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吉田 松陰 1
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吉田 松陰 像 1
(山口県 萩市 椿東)

吉田 松陰(よしだ しょういん)
(1830年−1859年)
長州藩士、思想家、教育者、兵学者。
明治維新の事実上の精神的理論者である。

撮影日:2007年8月23日
分 類:幕末志士、思想家、教育者
作 者:長嶺 武四郎
評 価:☆☆☆

[略 歴]
天保元年(1830)下級武士杉家の次男に生まれた。
5歳で叔父の吉田家を次ぐ。
幼い頃から山鹿流(やまがりゅう)の兵学を学び、11歳のとき藩主毛利敬親の前で講義を行い、19歳で兵学教授、藩校明倫館で講義を行う秀才であった。
学識を深めた松陰は、安政元年(1854)アメリカのペリーが日米和親条約の締結を目的に再度来航したとき、軍艦に乗り込み、海外への渡航を弟子の金子重輔とともに企てるが失敗。幕府にとらわれ、萩の野山獄に送られる。
在獄の後、実家の杉家に幽囚の身となるが、叔父の開いていた松下村塾を受け継ぐ。
松陰神社の境内にある松下村塾は、8畳の講義室・10畳半の控えの間・1坪の土間の簡素な平屋建ての建物である。
杉家の幽囚室での講義を含めてわずか2年半の間に90余名もの塾生たちを教育し、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、久坂玄瑞などやがて明治維新から新世代にかけて活躍することになる人物を育てた。
安政5年(1858)、安政の大獄が起こり、幕府に反対する人々に圧力をかけていた老中間部詮勝(まなべあきかつ)を要撃しようと計画したことで、野山獄に再入獄。
その後、江戸に送られ、松陰自身は新しい時代を見ることなく、安政6年に処刑され30歳の生涯を終えた。
激動の世に生き、先見性を持った思想と実行力も志なかばで終わったが、その志は門人たちの心の中に生き、明治の新しい時代をつくる礎となった。
「萩市ホームページ」から

[辞世の句]
獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残す。
その冒頭に記された辞世は、
”身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”

[エピソード]
○「晋作の識、玄瑞の才」 〜なぜ高杉晋作は英雄になれたのか?
吉田松陰は人を感化させる天才でした。
松下村塾の門下生はもちろんのこと、萩の野山獄や江戸の伝馬町獄などで松陰と出会った人々は、不思議なほど松陰に感化されていきました。
その松陰のもう一つのたぐいまれな能力は、周囲に集まるひとりひとりの資質と能力を見分けて自在に対応する力を持ち合わせていた点です。
例えば、松下村塾の双璧と謳われた高杉晋作や久坂玄瑞も決して松陰を師と仰いで入門したわけではありませんでした。
ところが、その感化力によってすぐに二人を感化させた松陰は、この二人の異なった資質と能力を素早く見抜き、「晋作の識、玄瑞の才」と二人を評価しながら、お互いを競わせたのです。
幼いころから英才の誉れ高く、利発であった玄瑞に対して、晋作は学問では決して玄瑞にかなうことがありませんでした。
しかし、晋作には松陰が識と称した資質が備わっていたのです。
その識とは、現代でいう数学ができるとか記憶力がよいというような、いわゆる勉強のできる能力とは異なったもので、炯眼(けいがん)、洞察力、直感力に近い意味、つまり先を正しく見通す力、状況に応じ、特に危機に際して機敏で的確な判断と行動ができる能力のようなものを表現していたと考えられます。
明日をも知れぬ動乱の世にあって、この識を持ち合わせていたおかげで、才を持ちながら蛤御門の変に殉じた玄瑞とは違い、幾多の危機を乗り越え、奇兵隊を結成して大田絵堂の戦いや四境戦争を勝利に導き、維新回天の立役者となった晋作が、日本史上最大の英雄のひとりと成り得たのです。

○「草莽の崛起(そうもうのくっき)」
開国後の日本では、外国のいいなりになって屈しているかのように見える弱い態度の幕府に対し、外国を追い払い日本国をどうやって守るかという強い気持ちをもっている人たちがいました。それを攘夷(じょうい)といいます。
その中心になったのが松陰を始めとする長州藩の志士たちでした。
松陰は幕府を倒すための力を、はじめは藩に期待しましたが、封建制度から抜け出ることのできない藩に失望し、残るは民衆の力しかないと思っていました。
そして民間からすぐれた人物があちこちからわき出るように出て、その力を結集して自由を勝ち取るという大きな期待を民衆にかけました。
これを「草莽の崛起」といいます。
松陰が処刑され、その亡き後、松下村塾から巣立った松下村塾生グループの高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの博文)などの若者は、「強い勢力を動かして、幕府を倒し、自由を勝ち取らなければならない」という松陰の志をうけついで、幕末維新の激動期に活躍していったのです。
ホームページ「知っちょるやまぐち!?」(山口県教育委員会)から


松陰と金子重輔の銅像は、1968年(昭和四十三年)、明治維新百年を記念して建たてられました。
題字は、内閣総理大臣佐藤栄作のものです。


[感 想]
吉田松陰、この人無しに幕末維新は、あり得ませんでした。
松陰の考え方は、今の世の中でも見習うべきところが多い素晴らしいものだと思います。
銅像は、萩の市内をじっと見据えておられます。
萩城のある指月山と菊ヶ浜とその先の海をよく見渡すことができます。
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