ken's銅像探索日誌
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井上 伝 1
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井上 伝 像 1 
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和50年(建立昭和51年)
分 類:その他
評 価:☆☆☆

井上伝
井上 伝(いのうえ でん)
(1789年-1869年)
江戸時代後期の女性。

天明8年12月30日生まれ。
父は筑後久留米の米穀商平山源蔵。
久留米絣の創始者。
12歳ごろ、白糸をくくり藍でそめておる技法を考案した。
おおくの弟子におしえ、お伝絣の名で普及した。
明治2年4月26日死去。82歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

DSCN0372.jpg

21歳のときに原古賀町の井上八次に嫁ぎ二男一女を儲けるが、伝が28歳のとき八次は病死。
嫁いでからは試行錯誤しながら久留米絣を「阿伝加寿利」として売り出した。
3人の子をかかえながら井上の織物の美しさは評判になり、最初は二十人前後だった弟子が
井上が40歳のころには3400人を超えた。
そのうち400人は各地に散ばり久留米絣は久留米藩の特産品となる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

江戸後期、久留米絣の創始者井上伝と東芝の創業者田中久重は、五穀神社(通外町)の近所で生
まれました。
五穀神社は7代藩主 有馬頼徸によって創建された神社で、境内には伝と久重の胸像が建てられて
います。この2人にはある繋がりがありました。
久重の手記とされる「年譜」に『文化10年絵がすり発明』とあります。文化10年(1813)
といえば、伝は26歳、久重は15歳です。「かすり」は、伝が13歳のときに創製した紺地に白
い斑紋の綿織物のことで、模様が掠れて見えたことから『加寿利』と名づけて販売していました。
どうして久重は『絵がすり』の発明をすることになったのでしょうか。
あるとき、伝は機織りの手を止めました。また絵の模様がうまく織れなかったのです。伝は城下・
原古賀町(現・久留米市本町)の井上家に嫁いでからも、寝る間を惜しんで織っていました。どう
しても紺地に白い部分を規則的にあしらった模様に満足できないのです。
「これまでと全く違った方法が必要なのだわ。あの少年なら何か分かるかもしれない」
それが「発明少年」の久重でした。わずか9歳で大人も驚くような『開かずの硯箱』をつくって
から、次々に箱や箪笥に独創的な細工を加えていると評判だったのです。伝は迷いました。自分
の生家の近くにある鼈甲細工屋の息子とはいえ、当時の男女関係の風習から親しくはなかったの
です。しかし、意を決して伝は久重に会いに行き、たずねました。
「紺の中に、花や鳥のような模様を織りたいの。よい方法はないかしら」
久重は、『加寿利』で名の知れた伝を知っていました。その女性が絵の模様をうまく織り出せずに
苦心しているというのです。久重は首を傾げました。
「紺と白のまだらの模様が織れたのだから、同じことだろうに。どうしてだろう」
久重は大人が驚くような理屈をいう少年でした。その頃、家業の鼈甲細工に興味がもてなくなり、
五穀神社の祭礼で自分のからくり人形を披露しようと、2階の部屋にこもって考案と製作にふけ
っていたのです。興味を覚えた久重は、機の構造や織り方について伝に何度も質問しました。年
齢の差はあっても、2人には相通じるものがあったのです。それは、新しいモノを創り出す喜び
でした。久重は熱心に耳を傾けて、こう答えました。
「からくり人形とは違いますが、やってみます」
久重はすでに構想を練っていたのでしょう。部屋に戻って何日も考え、ついにある案を思いつき
ました。それは「板締め技法」といわれるものです。板面に絵の模様を彫刻して、それから織り
糸をその板に張り、もう1枚の板で挟んで、かたく締めて染めたら絵模様が織り出せるのでした。
伝は少年の才能に感服しました。
「絵の模様を織る方法は分かったわ。後は、私の腕しだいね」
今度は、伝が試作を繰り返しました。そうして、ようやく心に描いていた花の柄が浮かび上がっ
たのです。さらに久重は、機の改良や糸の組み方なども教えたとされています。こうして、久重
の考えた『絵がすり』が生まれ、伝に新しい技術が加わったのです。
それからの2人は全く異なる道を歩みます。伝は久留米の地に留まり、数千人にも及ぶ弟子に自
分の技術を教えました。久重は、からくりの才から「からくり儀右衛門」と呼ばれ、大阪・京都
などに出て、時計師、近代科学の技術者として活躍しました。
伝と久重は、子どもの頃から折に触れて五穀神社にお参りしたことでしょう。郷学の森に並んで
建つ2人の胸像は、お互いの偉業を称えるようにほほ笑んでいます。
主な参考資料=『久留米絣200年のあゆみ』・『先人の面影・久留米人物誌』・
『田中久重伝』・『からくり儀右衛門』他 取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
「久留米市観光コンベンション協会ホームページ」から

[感  想]
五穀神社境内の郷学の森におられます。
着物を着た上半身の像です。
DSCN0373.jpg
久留米絣でつながりのある田中久重像と並んでいるのが良いです。
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