ken's銅像探索日誌
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毛利 敬親
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毛利 敬親 像 
(山口県 山口市 亀山町 亀山公園)

毛利 敬親(もうり たかちか)
(1819年- 1871年)
江戸時代後期の大名
第14代長州藩主

撮影日:2007年6月10日
建設年:昭和55年
分 類:大名
評 価:☆☆☆

毛利敬親
毛利 敬親
※出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

文政2年2月10日生まれ。
毛利斉元の長男。
天保8年(1837)長門(山口県)萩藩主毛利家13代となる。
村田清風を起用して藩政を改革,富国強兵策をすすめる。
文久3年周防山口に藩庁をうつす。
四国艦隊下関砲撃事件,禁門の変,第1・第2次幕長戦争などの難局を人材の登用によってきりぬけ,維新の功労者となった。
明治4年3月28日死去。53歳。
初名は慶親。諡(おくりな)は忠正公。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎藩政改革では人材育成に尽力し、家柄や年齢にこだわらずに幕末の長州藩から高杉晋作などの優秀な人材を輩出させた。11歳も年下の下級武士の息子である吉田松陰の才を評価して重用し、自ら松蔭の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。
敬親は松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったという(玖村敏雄の「吉田松陰」)。敬親の人柄は長州志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する
◎家臣の意見に対して異議を唱える事が無かったため「そうせい侯」と呼ばれ、賢明な藩主ではなかったとの評価もある。
しかし紆余曲折はあったものの、敬親は有能な家臣に全てを任せることで、結果窮乏する藩の財政を立て直した上、毛利260年の宿願であった「倒幕」を成し遂げている。
◎司馬遼太郎は『世に棲む日日』の中で、「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と書いている。
◎清水義範は『偽史日本伝』の短編で敬親を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。
◎敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという(中原邦平の忠正公勤王事跡)。
◎慶応4年(1868年)閏4月14日、木戸孝允から版籍奉還を促された。
全国の諸大名を納得させるために毛利家が率先して模範を示す必要があったためだが、敬親は了承した。
木戸はホッとして退出しようとすると敬親は「待て」と呼び止め、「これほどの変革を行なうには、その時機を見計らうことが大事」と注意した。木戸はそれを聞いて敬親に改めて礼を述べ、かの藩主が恐ろしく聡明であることを感じ取ったという(木戸孝允文書。忠正公勤王事跡)。
※出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
銅像は、昭和55年に山口市政施行50周年記念として建立された。

[感  想]
幕末に活躍した長州藩最後の殿様です。
高杉晋作、桂小五郎らが活躍できたのも、この殿様がいたからです。
馬上の顔は、おだやかで優しそうな感じがします。

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