ken's銅像探索日誌
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久坂 玄瑞
久坂1

久坂2

久坂3

久坂4

久坂6
久坂 玄瑞 像
(山口県 萩市江向 萩市中央公園)

撮影日:2016年7月14日
建設年:平成27年
分 類:幕末藩士
作 者:江里 敏明
評 価:☆☆☆☆

久坂 玄瑞
久坂 玄瑞(くさか げんずい)
(1840年-1864年)
幕末の武士

天保11年5月生まれ。久坂玄機の弟。
生家は長門萩藩医。松下村塾にまなび、吉田松陰の妹と結婚。
文久2年高杉晋作らとイギリス公使館を焼き討ちし、3年下関外国船砲撃に参加するなど、尊攘運動をすすめる。
禁門の変で負傷し、元治元年7月19日自害。25歳。
名は通武。通称は義助。
【格言など】諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎吉田松陰による評
●『久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。』
-安政4年(1857年)12月5日
「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」
●『久坂玄瑞は年こそ若いが、志はさかんで気魄も鋭い。
しかも、その志気を才で運用する人物である。
僕はかねてから長州藩の若手中では、君を第一流の人物であると、つねに、推奨してきた。
今、京都をすぎて江戸にゆこうとしている。
すでに、世の中は大変革する兆候があらわれている。君は僕たち仲間の中心人物である。
僕は、君の出発にあたって、君に非常の言葉を贈りたい。
京都や江戸には、この大変革ととりくむ英雄豪傑が大勢いる。
ゆえに、君は、彼らと大いに論じて、何をし、何をすべきかをはっきり見定めて、日本のゆくべき道をあきらかにしてほしい。
それができないで、僕が第一流の人物と推奨してきた言葉を単なる私見におわらせるようなことがあれば、君は、天下の有志に対して、大いに恥ずべきである。』
-安政5年(1858年)2月
「久坂玄瑞の壮行を祝して」
●『僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。
その後、高杉晋作を同志として得た。
晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。
しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。
そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。
そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、皆もそれを認めるようになった。
玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、晋作を推すようになった。晋作も率直に玄瑞の才は当世に比べるものがないと言い始め、二人はお互いに学びあうようになった。
僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識は気から発したものである。二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはないと思ったが、今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。
晋作よ、世に才のある人は多い。
しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない。』
-安政5年(1858年)7月
「高杉晋作の上京にあたっての壮行の辞」

◎西郷隆盛による評
お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られませんがなア。
-「明治維新後、木戸孝允に対して」
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

【銅 像】
久坂玄瑞進撃像
▽設置場所 中央公園(江向)の平安古・萩城城下町側
▽銅像本体の高さ 約1.8m(台座を含めた高さは約3m)
▽銅像制作者   江里敏明(日展審査員、京都市在住 萩城跡の毛利輝元公銅像、晋作広場の高杉晋作立志像を制作)
「ぶらり萩あるきホームページ」から

[感  想]
萩市の中央公園広場におられます。
久坂5
尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の像で、右手を上げて力強く東を指す、りりしい立ち姿です。
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