ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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毛利 秀元
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毛利 秀元 像
(山口県 下関市長府惣社町 長府毛利邸)

撮影日:2016年8月25日
建設年:平成28年
分 類:大名
作 者:楢原 北悠
評 価:☆☆☆

毛利秀~1
毛利秀元像(狩野探幽画)

毛利 秀元(もうり ひでもと)
(1579年-1650年)
江戸時代前期の大名

天正7年11月7日生まれ。
毛利元清の子。備中(岡山県)猿掛城で出生。
毛利輝元の養子となり、朝鮮出兵に名代として出陣した。
のち輝元に実子秀就が生まれたため分家。
関ケ原の戦い後、宗家より3万6000石を分与されて長門府中藩主毛利家初代となる。
古田織部門の茶人としても著名。
慶安3年閏10月3日死去。72歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

『長府毛利邸で銅像除幕 初代藩主・秀元』
下関市長府惣社町の長府毛利邸で26日、長府藩初代藩主・毛利秀元(1579~1650年)の銅像の除幕式が行われた。
銅像は高さ約2・3メートル。有志でつくる建立委員会が、全国約700人からの寄付金を活用し、約2200万円かけて建てた。
式では神事の後、秀元の子孫や安倍昭恵首相夫人、中尾友昭市長らが除幕した。
同委員会の勝原一明会長(73)が「(銅像が)新たな観光資源として活用され、下関や長府の観光、経済の発展に寄与できることを願う」とあいさつ。長府毛利家の子孫、毛利陽織(ひおり)さん(47)は「秀元の末孫としてうれしく思っている」と謝辞を述べた。
銅像はこの日、同委員会から下関市に寄贈された。
2016年03月27日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

[エピソード]
◎剛勇の将であり、智略にも優れていたといわれている。22歳でありながら、毛利氏の総大将として関ヶ原の戦いに兵1万5,000を引き連れて参陣したことも、それを証明している。しかし実戦経験が少なく、熟練の将であった従兄の吉川広家の内通を看破できなかった。

◎腕力が強く、碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げたという逸話も残っている。

◎関ヶ原後は長府藩主でありながらも、本家の執政として能力を遺憾無く発揮した。37万石の長州藩の知行を実高54万石にまで上昇させることができたのは彼や益田元祥の功績である。但し、大坂の陣における佐野道可派遣の件の首謀者とも言われ、結果的には関ヶ原の戦いにおける吉川広家と同様の所為を行っている。
秀元は6歳になった時に毛利輝元の養子となった。その理由を吉川元春は「今、毛利家に男子は多くいるが、宮松丸に及ぶ者なし」と言い、小早川隆景は「その眼差し・秘めたるものが元就によく似ており、毛利家を継ぐのは宮松丸しかいない」と言ったと伝わっている。

◎江戸時代、江戸城に出仕した際弁当に鮭の切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。

◎茶の湯や和歌に優れ、古田織部の弟子となり、家光の御伽衆に加えられてからは家光に茶を点じている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
長府毛利邸の入口におられます。
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全身像で束帯に笏(しゃく)を右手に持った堂々とした立ち姿です。
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