ken's銅像探索日誌
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狩野 芳崖 1
IMG_6068.jpg

IMG_6076.jpg
狩野 芳崖 像
(山口県 下関市 長府 覚苑寺)

撮影日:2007年9月6日
建設年:昭和8年
分 類:日本画家
作 者:藤田 文蔵
評 価:☆☆☆

狩野芳崖
「近代日本人の肖像ホームページ」から

狩野 芳崖(かのう ほうがい)
(1828年-1888年)
幕末-明治時代の日本画家

文政11年1月13日生まれ。
弘化3年江戸にでて狩野養信,狩野雅信に師事。
明治17年フェノロサの主宰する鑑画会に参加。
以後,フェノロサや岡倉天心と協力して日本画の近代化運動に力をそそいだ。
東京美術学校(現東京芸大)の設立にも尽力。
明治21年11月5日死去。61歳。
長門(山口県)出身。
名は延信。字(あざな)は貫甫。別号に皐隣,松隣。
作品に「悲母観音」「不動明王」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

同じ年に生まれ、同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。
由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。
日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。
フェノロサと知り合った明治15年(1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。
この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。
芳崖は東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。
墓所は東京谷中の長安寺。
芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[代表作品]
hibokanons.jpg
「悲母観音」の記念切手
●「悲母観音」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)一面絹本著色 1888年

不動明王 狩野
●「不動明王」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)1887年
原図はフリーア美術館が所蔵している
「東京藝術大学美術館ホームページ」から

[感  想]
絵筆と紙をを持って座っている姿は、堂々として立派です。
命をかけて描いた、「悲母観音」は素晴らしいものです。

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