ken's銅像探索日誌
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山縣 有朋 1
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山縣 有朋 像 1
(山口県 萩市江向 中央公園)

撮影日:2011年4月12日
建設年:昭和5年
平成4年(移設年)
分 類:幕末志士、政治家(内閣総理大臣)
作 者:北村西望
評 価:☆☆☆☆

山県有朋
「近代日本人の肖像ホームページ」から

山縣 有朋(やまがた ありとも)
(1838年-1922年)
明治-大正時代の軍人,政治家
第3代、第9代内閣総理大臣

天保9年閏4月22日生まれ。
もと長門(山口県)萩藩士。
松下村塾にまなび,奇兵隊軍監となる。
維新後,徴兵制,軍制を確立し,明治6年陸軍卿,11年初代参謀本部長。
18年初代内相となり地方制度を整備。
22年,31年の2度組閣。
以後も元帥,元老として陸軍,政界に山県閥を築き,内政,外交に絶大な発言力を発揮した。
大正11年2月1日死去。85歳。
【格言など】私は一介の武弁にすぎない
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎明治30年代(1897年 ― 1906年)、社会主義が勃興しつつあり、「社会」という言葉に対して
さえも政府が敏感であった頃の話である。
第2次山縣内閣の時、ある政府の役人が、日本の大学に社会学のようなものを置いてはいか
んと言った。
すると山縣は、一体どこで誰が社会学をやっているのかと問うた。それに対して、それは東京
の文科大学で、建部という教授が担当してやっていますと答えると、山縣は「建部がやってい
るのか。それならいいじゃないか」と言ったので、その結果ようやく社会学というものが潰れて
しまう危機を脱することが出来た。

◎山縣は軍政家であり、兵を率いて前線に立ち軍功を上げるということはそれほど多くはなか
ったが、維新後は「自分は一介の武辺」というのが口癖だった。
日清戦争で元首相でありながら第一線に立ったほか、日露戦争でも満洲軍総司令官就任を
希望していた(結局大山巌が就任)。
日本史上、軍人として前線に立った首相経験者は山縣だけである。

◎和歌を詠み、また漢詩、仕舞、書を好んだ。
茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や
7代目小川治兵衛をして築かせたものである。
これらは山縣の好みに従った自然を生かした構成で、近代主義的・自然主義的日本庭園とも
言えるもので、伝統的な日本庭園とは一線を画していた。

◎よく長州閥出身で、同じく大勲位となった伊藤博文と対比され「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)
ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。
現実に両者の政治姿勢は全く違うものであったが、当人たちの仲は非常に良く、お互いの良き
相談役であった。
同時代人が両者の特徴を評した言葉に次のようなものがある。
「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができ
る。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうと
する者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
以前撮っていましたが、周辺も整備され、桜も綺麗に咲いていたので、撮りなおしました。
昭和5年霞ヶ関の陸軍大臣官邸に置かれました。
戦時中の供出を逃れ上野に移され、その後井の頭彫刻園に置かれた後、
平成4年の産まれ故郷の萩に帰ってきた像です。
北村西望の代表作で、躍動感ある馬がいい感じです!

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