ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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大久保 利通
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大久保 利通 像
(鹿児島県 鹿児島市 西千石)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和54年
分 類:政治家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

大久保利通
「近代日本人の肖像ホームページ」から

大久保 利通(おおくぼ としみち)
(1830年-1878年)
幕末-明治時代の政治家

文政13年8月10日生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
島津久光に信任され小納戸役となる。
西郷隆盛,岩倉具視とむすんで討幕運動の中心となり,明治政府を樹立。
木戸孝允らと版籍奉還,廃藩置県をおこなう。
明治4年大蔵卿となり,岩倉遣外使節団副使。
6年参議となり西郷隆盛の征韓論をしりぞけ,同年内務卿を兼任。
佐賀の乱,神風連の乱,西南戦争などを鎮圧。
地租改正をおこない,元老院,大審院,地方官会議の設置による立憲制の樹立をめざした。
明治11年5月14日東京紀尾井坂で石川県士族島田一良らに暗殺された。49歳。
初名は利済。通称は正助,のち一蔵。号は甲東。
【格言など】為政清明(暗殺される朝の揮毫)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、必要だが予算のつかなかった公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めていたために死後は8,000円もの借金が残った。
ただし残った借財の返済を遺族に求める債権者はいなかった。
政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。

◎口数こそ少ないが他を圧する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かってまともに大久保に意見できる人間は少なかった。

◎人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も大久保に対しては、怖くてまともに顔を見ながら話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払い気持ちを大きくした上で意見しようとしたが、大久保に一喝されるやすぐに引き下がったと言われる。

◎大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返ったと千坂高雅が語っている。

◎福地源一郎は大久保の人物を「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」と評した。

◎大隈重信は大久保を「維新時代唯一の大政事家」と評し、意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる点を挙げている。
さらに同じく維新の三傑の一人木戸孝允とともに「維新時代の二大英傑」と評している(大隈は西郷を評価していなかった)。

◎明治6年(1873年)に五代友厚に浜寺公園へ案内された大久保は、堺県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、
「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」
と反対する歌を詠んだ。
税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。
なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。

◎西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と言ったようだ)。
西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。
また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。

◎家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。
出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。
また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子ども達が争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。
平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。
大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。

◎趣味は囲碁。
碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだのがきっかけで生涯の趣味となった。
なおそれ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある。

◎ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。
また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた。

◎写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、写真が好きで多くの肖像写真がある。
大久保 サンフランシスコ
サンフランシスコにて撮影

◎大久保は西郷を殺し、西南戦争で薩摩を滅ぼそうとした張本人として地元でのイメージは高くない。
近年まで地元への納骨すら避けられていたというからよっぽどのことである。
現在鹿児島市には大久保の銅像があるが、西南戦争百周年の頃に県外から「なぜ大久保の銅像がないのか」と言われて半ば渋々作ったものだという風説がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
銅像は没後100年を記念して、昭和54年9月26日に設置されました。
台座からの高さは9.7mです。(像のみは4.3m)

[感  想]
2007年に一度会っていますが、5年後に再び訪れ、後ろの細工も確認しました。
この銅像は、維新ふるさと館から200mくらい離れた川沿いに建っています。
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大久保は、西郷さんに比べて鹿児島ではあまり人気がないようです。
台座が高いのもイタズラされないためという噂もあるようです。
像は、確かに高く、コートをなびかせた姿は、堂々として立派です。

銅像の後ろ足元には、大久保さんが暗殺されたときに一緒に殺されてしまった馬車夫と馬の像が小さいけれどあるということで、
銅像の後ろにまわり、足元を見ると、
IMG_0823_20130210220842.jpg

IMG_0822.jpg
確かに台座のところから突き出た、馬と人の一部が確認できました!
こういった細工をすることは、おもしろいと思いました。
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