ken's銅像探索日誌
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大久保 利通
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大久保 利通 像
(鹿児島県 鹿児島市)

大久保 利通(おおくぼ としみち)
(1830年−1878年(明治11年))
薩摩藩士、政治家
西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新の三傑と呼ばれる。

撮影日:2007年10月20日
分 類:薩摩藩士、政治家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

[年  譜]
1830年
薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の娘・ふく子の長男として生まれる)。
幼少期に下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)に移住し、親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。
1846年
藩の記録所書役助として出仕する。
1850年
嘉永朋党事件(お由羅騒動)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると復職する。
1858年
斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・島津久光に友人・税所篤の助力で接近する。
1861年
御小納戸役に異例の抜擢、家格も一代新番となる。
1867年
江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した。
1869年(明治2年)
参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。
1871年(明治4年)
岩倉使節団の副使として外遊する。
外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や江藤新平らと対立し、彼らに明治六年政変を起こさせるべく画策し失脚させた。
1873年(明治6年)
内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。
当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。
また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。
1877年(明治10年)
西南戦争で政府軍を指揮した。
その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。
1878年(明治11年)
石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。享年48。

[エピソード]
○数こそ少ないが他を圧する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かってまともに大久保に意見できる人間は少なかった。人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も大久保に対しては、怖くてまともに顔を見ながら話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払い気持ちを大きくした上で意見しようとしたが、大久保に一喝されるやすぐに引き下がったと言われる。
○大久保は西郷を殺し、西南戦争で薩摩を滅ぼそうとした張本人として地元でのイメージは高くない。
近年まで地元への納骨すら避けられていたというからよっぽどのことである。
現在鹿児島市には大久保の銅像があるが、西南戦争百周年の頃に県外から「なぜ大久保の銅像がないのか」と言われて半ば渋々作ったものだという風説がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

銅像は没後100年を記念して、昭和54年9月26日に設置されました。
台座からの高さは9.7mです。(像のみは4.3m)


[感  想]
この銅像は、維新ふるさと館から200mくらい離れた川沿いに建っています。
大久保は西郷さんに比べて、鹿児島ではあまり人気がないようですね。
台座が高いのもイタズラされないためという噂もあるようです。
像は、確かに高く、コートをなびかせた姿は、堂々として立派です。


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