ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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坪内 逍遥
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坪内 逍遥 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)
(1859年-1935年)
明治-昭和時代前期の小説家,劇作家,評論家

撮影日:2007年10月26日
建設年:昭和37年
分 類:文学者
作 者:長谷川榮作
評 価:☆☆☆

坪内逍遥
「近代日本人の肖像ホームページ」から

安政6年5月22日生まれ。
東京専門学校(現早大)の講師をへて教授。
明治18年評論「小説神髄」,小説「当世書生気質(かたぎ)」を発表し,近代的な写実主義文学をとなえる。
24年「早稲田文学」を創刊。
演劇の改良をこころざし戯曲「桐一葉」などを創作。
39年文芸協会を組織。
シェークスピアの全作品を完訳した「沙翁全集」もある。
昭和10年2月28日死去。77歳。
美濃(岐阜県)出身。東京大学卒。
名は勇蔵のち雄蔵。別号に春の屋おぼろなど。
【格言など】小説の主脳は人情なり,世態風俗これに次ぐ(「小説神髄」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆明治から昭和初期に活躍した小説家・翻訳家・劇作家。
安政6年(1859)に、当時尾張藩領だった美濃国加茂郡で尾張藩士の子として誕生。実家の地元にあった洋学校を卒業後、東京大学予備門を経て東京大学(後の東京帝国大学・東京大学)を卒業。
坪内逍遥の名を世に知らしめたのは評論『小説真髄』でした。
このなかで勧善懲悪に偏重していた江戸期の功利的文学を批判し、人情(人物・心理描写)や、写実的描写の重要さを説きました。
これにより日本に近代文学を芽吹かせたといわれています。
教育者としての活躍は、創設間もない東京専門学校(早稲田学校)の文学講師として招かれたのがきっかけで、後に同校の教授になります。
当時、政府から敵視されていた東京専門学校は、設立者の一人である大隈重信が学生への風当たりを考慮して学校行事に出ない(約15年続いたといわれます)など、厳しい状況でしたが、坪内は文学の講義を担当して、まだ若いこの学校を支えました。
この功績により、創設者・小野梓とともに学校創設期を支えた高田早苗(憲法・行政法ほか)、天野為之(経済学ほか)、市島謙吉(高田を補佐し、財政面や図書館の充実に尽力)とともに“早稲田の四尊”の一人に数えられています。
早稲田大学構内の演劇博物館前に置かれている銅像は、昭和37年に演劇博物館創立70周年を記念して建立されました。
彫刻家・長谷川榮作の製作による胸像で、大学にて「シェークスピア」を題材に講義する姿を描いたものです。
台座は歌碑になっており、會津八一(歌人・美術史家。坪内に招聘されて早稲田中学校教員、後に早稲田大学文学部講師兼任)が坪内逍遥を偲んだ和歌が刻まれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

「家 族」
妻センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓・花紫で、学生であった逍遙が数年間通いつめ、1886年に結婚した。
これをテーマにした松本清張『文豪』がある。
二人には子がなく、逍遙は兄義衛の三男・士行(元宝塚歌劇団職員で演劇評論家)を養子としたが後に養子縁組を解消した。(士行の妻は宝塚歌劇団1期生の雲井浪子、その子は女優・坪内ミキ子)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
早稲田大学の演劇博物館前にあります。
シェイクスピアの講義の姿を表した像で、生き生きとした逍遙の熱弁が伝わってきます。

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