ken's銅像探索日誌
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大隈 重信
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大隈 重信 像
(東京都  新宿区 早稲田大学)

大隈 重信(おおくま しげのぶ)
(1838年-1922年)
明治-大正時代の政治家
第8代、第17代内閣総理大臣
東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者

撮影日:2007年10月26日
建設年:昭和7年
分 類:政治家
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

2大隈重信

大隈重信1
「近代日本人の肖像ホームページ」から

大隈2
アカデミックドレスを着用した大隈
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天保9年2月16日生まれ。
肥前佐賀藩士大隈信保の長男。
長崎でフルベッキに英学をまなぶ。
維新後,明治政府の徴士参与職,外国官副知事,大蔵卿,参議などを歴任。
秩禄処分,地租改正などを推進した。
明治十四年の政変で官職を辞し,翌年立憲改進党を結成し,総裁。
同年東京専門学校(現早大)を創立。
21年第1次伊藤内閣,ついで黒田内閣の外相となり,条約改正にあたるが,反対派の来島恒喜に爆弾をなげつけられ右足をうしなう。
31年板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織。
大正3年第2次内閣を組織して第一次大戦に参戦,4年には対華二十一ヵ条要求を提出した。
大正11年1月10日死去。85歳。
【格言など】文明の凶器は利きめあり(爆弾事件のときの言)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆明治から大正にかけて活躍した思想家・政治家・教育者で、現在の早稲田大学を開設するなど教育の近代化にも大きな足跡を残した偉人です。
天保9年(1838)に肥前国佐賀藩の藩士(砲術師範)の子として誕生。
7歳で藩校弘道館に入学しますが教育方針に反発、のちに改革運動を起こしています。
その一方で、国学、蘭学を熱心に学び、蘭学に関しては後に教授となり藩校弘道館で講義したほか、藩校英学塾で英語やアメリカの文物・思想を学んでいます。
こうして海外の思想・文化・教育に精通し、また語学にも堪能であった大隈重信は、明治政府が誕生すると外国事務局判事として対外諸問題を担当したのをきっかけに、明治6年(1873)には参議兼大蔵卿の要職に就くなど、政府の中枢で活躍します。
大隈重信の周辺には多くの人材が集まりました。
佐賀藩時代からの盟友である江藤新平や、若手官僚として活躍し、後に大隈とは〝政敵〟ともいえる関係になる伊藤博文、家族ぐるみの親交があったという福沢諭吉など、欧米列強をして“アジアの奇跡”といわしめた日本の急速な近代の原動力となった人々がいました。
しかし、後に国家構想を巡り、財政上の問題や閣僚との対立が原因で、大隈は下野(明治14年の政変)します。
閣僚時代、大隈は国会開設の必要を強く訴えており、これに備えて盟友の一人である小野梓とともに明治15年(1882)に政党(立憲改進党)を結成し、また同年に「学門の独立」の精神を基として東京専門学校(早稲田学校と別称された)を開設しました。
明治21年には政府の求めに応じて外務大臣として政界に復帰。
後に総理大臣(第8代、第17代)となります。
大正5年(1916)の総理大臣辞任によって政治の世界を退きましたが、この時の年齢は実に78歳と6ヶ月という高齢で、この最高齢記録は今だ破られていません。
大隈重信が世を去ったのは、政界引退から6年後のことでした。
銅像は、新宿区早稲田の早稲田大学構内にあるガウン姿の立像が有名です。
この像は昭和7年(1932)に早稲田大学創設50周年と大隈重信没後10周忌の節目として建立されたもので、実は構内の銅像としては二代目。
製作は彫刻家の朝倉文夫です。
杖をついている姿が印象的な像ですが、これは明治22年に暴漢に襲われ、爆発物を投げつけられたことが原因で右足を切断していたためです。
この事件で大隈は外務大臣を辞職しており、活動の主軸を教育に置いて精力的に活動していました。
固く結ばれた口元や彫りの深い表情など、人物像として見応えがあります。
角帽とガウンを身に付けた姿は、早稲田入学を目指す多くの学生の憧れにもなっています
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎大正11年(1922年)1月10日に早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。
◎謹厳な表情をし、口をへの字に結んでいる写真が象徴的な大隈であるが、派手好きで見栄坊、かつ負けず嫌いであり、特に伊藤博文をライバル視していたことがよく知られている。
・伊藤博文については以下の話が伝えられている。1897年に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。
様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、1907年には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で大磯を引き払っている。
・大隈と同郷で、かれに目をかけられた行政法学者織田萬のエッセイ集『法と人』(1943年、春秋社教養叢書)によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。
・また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と悲しみつつも本気でうらやんだとのことである。
◎癖は「何々であるんである」。時には「何々であるんであるんである」となる。
◎あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。
◎極めて合理的な考えを持っており、英雄を認めず、そのためか西郷隆盛を全く認めていない。
◎人間は25年を5回生きる能力を有している、いわゆる人生125歳説を唱えた。
大隈自身は83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる2007年(平成19年)には記念式典を行っている。
◎お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金(硬貨)は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
早稲田大学の入り口から入った広場の所におられます。
早稲田大学紹介の時には出てくる有名な像ですね。
大熊が、爆弾を投げられて負傷し、右脚を切断したというのは、初めて知りました。
それで、杖をついているのですね。
四角い帽子を被ったガウン姿は、威厳があり、顔の表情もよく分かり、立派な像です。
残念なことに、大隈講堂の中にも大隈の銅像が有るとは知らず、中に入りませんでした。また機会があれば撮りたいと思います。
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大隈講堂
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